晉書卷百十一 載記第十一 前燕 慕容暐
慕容暐(字は景茂、351–385年)は慕容儁の第三子で、前燕最後の皇帝。凡庸な君主で国事はもっぱら慕容恪に委ねられ、恪の死後は慕容評の専横と内紛により国力が傾き、前秦に敗れて前燕は滅亡した。長安に送られたのちも苻堅暗殺を謀り誅殺された。
慕容暐――前燕最後の皇帝
即位と輔政体制(升平四年=360年)
- 慕容暐、字は景茂。慕容儁の第三子。はじめ中山王に封ぜられ、まもなく太子に立てられた。儁が死ぬと群臣は慕容恪の擁立を望んだが、恪は「国に太子あり、簒奪は自分の節義に反する」と固辞し、暐が即位した。
- 升平四年(360年)、皇帝を僭称し大赦、建熙と改元。母の可足渾氏を皇太后とした。慕容恪を太宰・録尚書(周公の故事に倣う)、慕容評を太傅、慕輿根を太師、慕容垂を河南大都督などに任じ、諸将にそれぞれ官を授けた。
慕輿根の専横と誅殺
- 暐は凡庸で国事はもっぱら恪に委ねられた。功臣を自負する慕輿根は恪の権勢を妬み、恪に「幼主・母后専政の折、殿下が帝位に就くべし」と反逆をそそのかしたが、恪は先帝の遺命を盾に厳しく拒絶した。慕容垂は根の誅殺を勧めたが、恪は「大喪直後に宰輔が相殺すれば人心を失う」として容認した。
- 根は左衛慕輿幹と謀り、恪・評を除いて簒位しようとし、可足渾氏と暐に讒言したが、暐は「二公は先帝の信任篤く、疑わしいのはむしろ太師の方だ」と見抜き、侍中皇甫真・護軍傅顏に命じて禁中で根らを斬らせ、大赦した。
呂護の乱平定
- かつて石季龍配下だった呂護が野王に拠り晋に通じていたが、儁の死後は王師を鄴に導こうと図り露見。暐は慕容恪ら五万を派遣して討伐させた。傅顏は速攻を進言したが、恪は持久策を選び、包囲を固めて糧道を断ち、三月から八月にかけて野王を陥落させた。呂護は晋に降ったが再び燕に帰順し、のち河陰に拠って戦死。段崇が軍を収めて野王に屯した。
洛陽方面の攻防と晋の桓温の介入
- 慕容忠が滎陽、慕容塵が長平を攻略。晋の陳祐が洛陽を守り桓温に救援を求め、桓温が援軍を送った。興寧初年(363年頃)、慕容評が許昌・懸瓠・陳城を陥し汝南諸郡を略取、万余戸を幽・冀に徙した。孫興の献策により司馬悅希・孫興を派遣、陳祐は陸渾に逃れ、河南諸塁は悉く陥落。恪は金墉を陥し晋将沈勁を殺害、慕容垂を都督十州諸軍事とし魯陽に鎮させた。
恪・評の帰政上表と暐の慰留
- 水旱の災害を理由に恪・評は再三辞任を願い出たが、暐は姫旦(周公)の故事を引いて慰留し、両者もこれに従った。
木徳への改元の議
- 鐘律郎郭欽の議により、暐は石季龍の水徳の後を承け木徳とすることを定めた。
太山方面での攻略(太和元年=366年)
- 太和元年、慕容厲が晋の太山太守諸葛攸を攻め、攸は淮南に敗走。兗州諸郡を陥し守宰を置いて還った。
恪の病と後継への遺言
- 恪は病に臥し、暐の政が評に委ねられることを憂い、暐の兄・楽安王臧に「呉王(慕容垂)に軍権を授けるべし、評には不安がある」と遺言し、その後死去、国中がこれを惜しんだ。
南陽・宛の攻防
- 晋の南陽督護趙弘が宛を燕に降し、暐は趙盤に宛を守らせたが、晋の桓豁がこれを攻略、趙盤は魯陽に敗走した。
苻堅への警戒と苻謏来降問題
- 前秦の苻謏が陝を燕に降し、燕軍の関中侵入を恐れた苻堅は華陰に精鋭を集めた。慕容徳は救援と関右攻略を上疏したが、私利で秦から賄賂を得ていた慕容評がこれを阻んだ。苻謏は垂・皇甫真に危機を訴えたが、垂は評の器量に見切りをつけていた。
悦綰の軍戸整理と暗殺
- 僕射悦綰は軍営戸の整理を進言し、暐がこれを容れて二十余万戸を出させたが、既得権を害された慕容評がまもなく綰を殺害した。
桓温の北伐撃退(太和四年=369年、枋頭の戦い)
- 晋の桓温・桓沖・袁真らが五万で暐を伐ち、慕容厲は黄墟で大敗、高平太守徐翻も晋に降った。桓温軍は枋頭まで進出。暐は和龍への逃亡を図ったが、慕容垂が自ら迎撃を志願し、慕容徳と共に糧道を断って桓温を撤退させ、追撃戦(襄邑・譙)で王師に大打撃を与えた。
垂の出奔
- 大功を挙げた垂を慕容評は妬み、その部下の論功行賞を握りつぶした。垂と評は廷争に至り、垂を憎む可足渾氏も評と謀って垂の殺害を図ったため、垂は苻堅のもとへ出奔した。
対秦外交と警戒論
- 梁琛・皇甫真は苻堅・王猛の脅威を繰り返し進言したが、評は「秦は小国であり侵攻の意図なし」として油断した。
王猛の侵攻と金墉陥落
- 苻堅が王猛を派遣して金墉の慕容築を攻めさせ、暐は慕容臧を救援に送ったが石門で大敗、築は降伏した。梁成はさらに慕容臧を破った。
壽春降伏事件
- 桓温は北伐失敗の責を豫州刺史袁真に負わせ、真は怒って壽春を燕に降したが、真とその後継の統は間もなく死去した。
申紹の上疏(内政批判)
- 尚書左丞申紹は、地方官の人選の乱れ、賦役の過重、宮中の奢侈(後宮四千人余)、辺境政策の失敗を痛烈に批判し改革を上疏したが、暐は納れなかった。
潞川の戦いと鄴陥落(太和五年=370年、前燕滅亡)
- 苻堅は王猛・楊安に壺関・晋陽を攻めさせ、暐は慕容評に四十余万を率いさせて潞川で対峙。評は水源・薪を独占して私財を蓄え士気を失わせ、王猛の焼き討ち策や暐の督促にも拘らず大敗、死者五万余。王猛は鄴に迫り、堅自ら十万を率いて合流。暐は昌黎へ逃れる途中、高陽で捕らえられ長安に送られた。堅は暐を許して降伏させ、評・慕容桓らも追討され捕らえられた。
- 堅は暐及び王公以下鮮卑四万余戸を長安に徙し、暐を新興侯に封じ尚書とした。前燕は慕容廆の太康六年(285年)称公から数えて廆・皝・儁・暐の四世八十五年、暐在位十一年(360-370年)で滅んだ。
暐の最期(太元十年=385年頃)
- 淮南の戦い(苻堅の対晋南征失敗)に随行して長安に戻った後、慕容垂が鄴で苻丕を攻め、慕容沖が関中で挙兵すると、暐は苻堅暗殺を謀ったが露見し誅殺された、享年35。慕容徳の即位後、幽皇帝と追諡された。
慕容恪――輔政の名臣
出自と武功
- 慕容恪、字は玄恭。慕容皝の第四子。母高氏は寵愛薄かったが、15歳で身長八尺七寸、威風堂々として皝に見出され兵権を授けられた。遼東鎮守で高句麗を威圧し、慕容俊と共に夫餘を討ち先陣を切った。
儁の遺託と摂政
- 皝は臨終に俊へ「恪の智勇に天下を託せ」と遺言。俊も恪を太原王に封じ侍中・大都督・録尚書とし、病没に際し恪と慕容評に後事を託した。暐の代には朝権を総攬。晋の建鄴では「慕容恪存命が最大の懸念」と評された。
慕輿根誅殺後の鎮撫
- 根の誅殺で内外が動揺する中、恪は平静を保ち一人徒歩で出入りし、人心を鎮めた。人材を適材適所に用い、政務は必ず評と相談、私邸に戻れば孝養と読書に努め、部下の過失を表沙汰にしなかったため官吏は自ずと徳に感化された。
洛陽攻略と苻堅の警戒
- 恪の洛陽攻略に際し秦(前秦)は震撼し、苻堅自ら潼関で警戒した。恪は威厳よりも恩信を重んじ、軍紀は緩やかに見えて実は厳格、終始敗北がなかった。
臨終の遺言
- 臨終に暐が見舞うと、恪は「文武兼備の呉王(慕容垂)を重用すべし。さもなくば秦・晋の侵攻を招く」と遺言して没した。
陽騖・皇甫真――重臣二人
陽騖
- 陽騖、字は士秋。右北平無終の人。父耽は慕容廆に仕え東夷校尉となった。騖は廆・皝二代に仕え謀議に参画、皝は臨終に俊へ「陽士秋は大事を託せる忠臣」と遺言した。暐の代には太尉となるも「常林・徐邈の故事」を引いて固辞したが許されなかった。清貧で、死に際し家財の蓄えがなかった。
皇甫真
- 皇甫真、字は楚季。安定朝那の人。廆・皝二代に仕え善政で知られ、俊の鄴攻略でも私利を貪らず民の慰撫と図籍の接収に努めた。俊の臨終に恪らと共に後事を託される。慕輿根の謀反を察知し恪に告げて未然の対処を促し、呂護討伐でも武力行使を進言した。苻堅の間者郭辯の接触を厳しく拒絶し、清廉さで堅からも一目置かれた。王猛の鄴入城時、当初拝礼したが翌日には対等の礼に改め、「昨日は賊、今日は国士」と応じて猛に感嘆された。
史論
- 史臣は、北方異民族は華夏と隔絶し先叛後服を常とすると総括した上で、慕容廆は英傑ながら乱の発端となった人物であり、二帝(懐帝・愍帝)平陽幽閉の際は情勢を窺い、建康の東晋樹立後は籓臣の礼を尽くすなど、時勢を見て動いた実利家であったと評す。ただし農桑を勧め賢士を用いる統治手腕は評価する。
- 慕容皝(元真)は威風堂々、烏丸・宇文氏を破る武功があったが、勅命を待たず王を称するなど驕慢さも指摘される。
- 慕容儁(宣英)は石氏の隙に乗じ中原を制した功があるが、僭号し江東を脅かした責は重いとする。
- 慕容暐(景茂)は凡庸な君主で、恪の輔弼により一時は洛陽・河南を制したが、恪の死後は慕容垂が疎まれ評が私腹を肥やし、忠臣は道を失い讒言が横行、ついに前秦に敗れて身は異国に死んだと総括、「吉凶は人による」と結ぶ。
- 賛(韻文)では、慕容氏が代を重ねて興隆したものの、危うきに乗じて起こり、天子の位を僭窃しながら徳による守りを欠いたため、ついに禍いを招いたと総括する。