晉書卷百十 載記第十 慕容儁
慕容儁(字は宣英、?–360年)は慕容皝の第二子。父の死を受けて燕王を僭称し、冉閔を滅ぼしたのち皇帝に即位、前燕を中原の一大勢力に押し上げた。文武を兼ね備え著述も残す一方、晩年は太子の資質に不安も抱えた。
慕容儁――前燕の皇帝即位
即位と華北争奪
- 慕容儁、字は宣英。皝の第二子。廆はかつて「積善の子孫は必ず中原を得る」と予言し、儁誕生時に「骨相尋常ならず、我が家はこの子を得た」と喜んだという。身長八尺二寸、文武の才を備え、皝の世子として仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられた。
- 皝の死(永和五年・349年)を承け燕王を僭称、元年と改元。石季龍の死で趙・魏が大乱に陥る好機を捉え、慕容恪・慕容評・陽騖・慕容垂ら二十余万の精鋭を編成。穆帝から使持節・大都督・幽冀并平四州牧・大将軍・大単于・燕王に任じられる。
- 翌年、盧龍から南征し薊城を攻略して遷都、広寧・上谷・代郡の民を移す。冉閔からの使者常煒を、記室封裕が「養子の身で何ゆえ帝号を僭称するか」と詰問するが、煒は湯武の故事や魏武帝の例を引いて弁じ、脅しにも屈せず、儁は「使者を害するのは礼にあらず」として赦した。
冉魏の滅亡と皇帝即位
- 慕容恪・慕容評らが中山・魯口を攻め冉閔配下の諸将を破る。慕容恪は「冉閔は師老い卒疲れ、勇のみで謀なし」と看破し、伏兵の挟撃戦術で泒水にて冉閔を大破・捕獲、龍城に送って斬った(詳細は載記第七に既述)。段勤・王午らも次々に降伏。
- 蔣幹が伝国璽を建康へ送っていたが、儁は冉閔の妻が璽を得て献じたとする話を流布させ、永和八年(352年)皇帝に即位、「元璽」と改元。封奕を太尉、慕容恪を侍中、陽騖を尚書令などに任じ、廆を高祖武宣皇帝、皝を太祖文明皇帝に追尊。晋からの使者には「我はすでに中国に推されて帝である」と述べた。司州を中州と改め、五行説(金行の後を承け水徳)に基づき服色や祭祀を定めた。
群雄の帰服と東方経略
- 段龕(斉王を称し広固に拠る)は晋に籍を置き儁の即位を認めなかったため、慕容恪が討伐。段龕弟の羆の献策(籠城して精鋭で迎撃)を退けた段龕は大敗、恪は「兵は状況に応じ緩急を使い分ける」との持久戦論に基づき広固を包囲、ついに攻略した。
- 太子曄の死(諡・献懐)を受け升平元年(357年)次子暐を皇太子に立て「光壽」と改元。慕容垂らが丁零・敕勒を大破し十余万を捕虜とする。廆の愛馬「赭白」を銅像にして顕彰するなど、王朝としての権威付けを進めた。
- 匈奴単于賀頼頭が三万五千落を率いて降る。晋の諸葛攸の東郡侵攻を慕容恪が撃退し、逆に汝・潁・譙・沛を制圧。薊から鄴へ再遷都し宮殿を整備、銅雀台を復興した。
- 廷尉監常煒の上言により、戦乱で祖父母を葬れぬまま出仕できずにいる孤児らの救済(招魂葬の制度化)を求めるが、儁は時期尚早として保留した。苻堅配下の并州刺史劉特ら、河内・黎陽の郡守らが相次いで儁に帰順。上党の張平・馮鴦・呂護らの勢力(新興・雁門など六郡・壁塁三百余)も慕容評・慕輿根・陽騖・慕容臧らの討伐を受け、最終的に降伏または離散した。
晩年と崩御
- 全国的な大動員(一戸につき一丁を残し他は全て徴発、百五十万の兵力を目標)を計画するが、武邑の劉貴が民の困窮を諫め、儁は動員規模を緩和した。
- 蒲池での宴で早世した太子曄を偲び落涙し、司徒左長史李績に人柄を問うたところ「至孝・聡敏・沈毅・直言を好む・好学・才芸・謙譲・民を憐れむ」の八徳を挙げられ、現太子暐の資質(游猟や音楽を好む)への懸念も指摘された。
- 石季龍の霊が自分の腕を噛む夢を見た儁は激怒し季龍の墓を暴いて屍を鞭打ち、漳水に棄てさせた。晋の諸葛攸の再侵攻は慕容評・傅顏が撃退。病床で慕容恪に後事(幼い太子暐の輔佐)を託そうとし、一時は禅譲まで持ちかけるが恪に固辞され、李績を頼れと言い残した。
- 昇平四年(360年)、儁は四十二歳、在位十一年で崩御。「景昭皇帝」と諡され廟号は烈祖、陵墓は龍陵。文籍を好み著述四十余篇を残し、威儀を崩さぬ厳格な人柄であったという。
韓恆――「木徳」を献策した謀臣
- 韓恆、字は景山。灌津の人。張載に師事し「王佐の才」と評される。永嘉の乱を避けて遼東に至り、廆に召されて参軍事となる。咸和年間、廆に大将軍・燕王号を推挙する議論が起きた際、韓恆は「功を立てる者は信義の不足を憂うべきで、名位の低さを憂うべきではない」と諫めて廆の不興を買い、新昌令に左遷された。
- 俊が即位の際に五行の徳(金徳か水徳か)を巡る議論で、群臣が「燕は晋の後を承けて水徳」とする中、韓恆は「趙(石氏)が中原を得たのは天命であり、燕の出自は震(木徳)にあり龍の瑞祥も木徳を示す」と論じ、俊は最終的にこの説を採用した。秘書監聶熊は「君子あってこそ国は興る」と韓恆を称えた。李產と共に東宮の傅となり、俊から「代えがたい偉人」と評された。
李產――節義を貫いた石氏・燕の重臣
- 李產、字は子喬。范陽の人。永嘉の乱に際し祖逖に身を寄せるが、その野心を察して郷里に戻り石氏に仕え太守となる。慕容俊の南征軍が迫った際、郷人の勧める降伏を拒み「禄を受けた者が安危を共にせぬは義に反する」と最後まで抗戦した末に降伏、俊に「なぜ功を立てず降ったか」と嘲られるも「天命の帰趨は臣の抗し得るところにあらず」と応じ、その気概を評価されて登用された。剛直な諫言で知られ、老齢を理由に固辞して家に退き没した。
- 子の李績、字は伯陽。石季龍の段遼親征時、郡の窮乏を毅然と弁明し太守を救う。慕容俊の南征後は各勢力を渡り歩くが、「豫譲が智伯に報いた故事のように、仕える主君が変わることを恨みとしない」と述べて俊に仕えた。太子中庶子などを歴任するが、暐の即位後は慕容恪の推挙にもかかわらず旧怨(俊への直言)により暐に用いられず、憂いのうちに没した。