晉書卷百九 載記第九 慕容皝
慕容皝(字は元真、?–348年)は慕容廆の第三子。父の死後に嗣位し、兄弟間の内紛や宿敵との戦いを制して遼東を平定、「燕王」を僭称して前燕の王権を確立した。晩年は諫言を容れる度量も示した。
年表(5件)
- 太寧末(頃)326年平北将軍に任じられる
- 咸和九年334年鮮卑諸部を討って連勝し、遼東を平定する
- 咸康三年337年「燕王」を僭称し、文昌殿を建てて天子に准じる儀礼を整える
- 咸康七年341年龍城に遷都し、宇文・高句麗遠征を敢行する
- 永和四年348年畋猟中に落馬して負傷し崩御。在位15年、52歳
慕容皝――前燕の王権確立
即位と兄弟間の内紛
- 慕容皝、字は元真。廆の第三子。龍顔で歯並びよく身長七尺八寸、権略に富み経学・天文を好んだ。廆の世子となり冠軍将軍・左賢王・朝鮮公を歴任、太寧末(326年頃)平北将軍。廆の死後に嗣位、平州刺史を代行。宇文乞得亀が別部逸豆帰に逐われると討伐して和議を結び、榆陰・安晋二城を築いた。
- 庶兄の建威翰は驍武で人望があり皝に忌まれ、母弟の征虜仁・広武昭も廆の寵愛を受けていたことから皝と不和であった。廆没後、仁が昭に挙兵を勧めたため皝は昭を殺害、仁は使者を殺して東の平郭に走り、遼東の大半を制圧して自ら車騎将軍・平州刺史・遼東公を称した。翰は段遼のもとへ出奔した。
遼東平定と燕王即位
- 咸和九年(334年)、皝は司馬封奕らに命じ鮮卑諸部(木堤・悉羅侯)を討たせて連勝。段遼が徒河・柳城を攻めるも皝軍が撃退、成帝は皝を鎮軍大将軍・大単于・遼東公に任じた。皝自ら遼東を征し兄弟仁を捕らえて誅殺、大姓を棘城に移し三県を設置。
- 咸康初(335年頃)、宇文別部涉奕于との戦いに連勝。冬、海が凍結する好機を捉え全軍で乗り込み仁の残党を討った。段遼・段蘭・宇文帰との攻防でも伏兵策を用いて連戦連勝。封奕らの勧めで咸康三年(337年)に「燕王」を僭称、文昌殿を建て天子に准じる儀礼を整え、段氏を王后、世子俊を太子に立てた。
石季龍との対峙と朝廷への上表
- 段遼討伐で石季龍に協力を約すが会師せず、季龍は怒って棘城を包囲。皝の子恪の奇襲で季龍軍は敗走、その後段遼を巡る攻防でも恪が季龍軍を破り段遼を捕獲した。皝は征北大将軍・幽州牧に進む。
- 庾冰が輔政する朝廷に対し、皝は外戚専権の歴史的弊害(田蚡・王莽の例)を説く上表と冰への書簡を送り、自らの燕王号の正式な承認を求めた。冰らはその勢威を制御できぬと判断し燕王号の承認を朝廷に上奏させた。
- 高句麗王釗が一時服属を誓う。庶兄翰は宇文帰のもとで韜晦して情報を集め、皝の使者の意を察して駿馬を盗み二子と共に帰参した。
対石虎・対高句麗・対宇文の三方経略
- 皝は石季龍の油断を突いて蠮螉塞から薊城・武遂津・高陽へ長駆し幽冀三万余戸を掠める。龍城を築いて遷都、成帝は皝を侍中・大都督河北諸軍事・大将軍・燕王に任じた。
- 咸康七年(341年)、龍城に遷都した皝は宇文・高句麗遠征を敢行。翰・垂の軍が木底で高句麗軍を大破し丸都に入城、王釗の父の墓を暴いて遺骸・母妻・財宝を奪い宮室を焼いた。翌年釗は臣従を誓い父の遺骸を得た。宇文帰配下の莫浅渾を撃破し、さらに宇文歸本体も涉奕于を斬って大破、部族五万余落を昌黎に徙し威徳城と改名した。
内政――記室封裕の農政諫言
- 皝は牧牛を貧民に貸与し収穫を官民で分ける制度を敷いたが、記室参軍封裕は「聖王の政は薄賦にして民に蓄えさせるもの、官の取り分が過大では民は潤わない」と諫め、苑囿を廃して流民に田を開放すること、高句麗・百済・宇文・段部の帰属民が望郷の念を抱いているため分散して監視すること、遊食の徒を減らし農戦に人を充てること、諫言を退けた側近(右長史宋該ら)を戒めることなどを説いた。皝はこれを容れ苑囿を廃し、諫言により罰せられていた王憲・劉明を復官させた。
- 黒龍・白龍の瑞祥に喜んだ皝は新宮を「和龍」と号し龍翔仏寺を建立。東庠を興し文籍を好み、自ら『太上章』『典誡』十五篇を著して子弟を教えた。慕容恪が高句麗の南蘇を攻略、世子俊と恪が夫余を討ち王とその民五万余口を虜にした。
- 永和四年(348年)、皝は畋猟中に不吉な老人の幻を見た後、白兎を追って落馬し負傷、まもなく崩御。在位十五年、時に五十二歳。世子俊が即位して「文明皇帝」と追諡した。
慕容翰――仇国にあっても忠を尽くした智将
- 慕容翰、字は元邕。廆の庶長子。豪気で権略に富み弓馬に優れ、遼東に鎮して高句麗を畏怖させた。士大夫から兵卒まで慕われた。
- 段遼のもとに出奔後も深く敬愛されたが、皝との戦いでは段蘭の深追いを機転で止めさせるなど、仇国にありながら旧主国の利益を陰で守った。石季龍の遠征時にも段蘭の追撃を諫めて聞き入れられず、蘭は大敗した。
- 段遼没落後は宇文帰のもとへ逃れ、追手を弓の妙技(百歩先の刀の環を射抜く)で威嚇して退けた。皝のもとに帰参後は厚遇されたが、建元二年(344年)の宇文帰討伐で負傷して臥せった後、自宅で騎馬の稽古をしていたのを密告され、以前から翰を忌んでいた皝により賜死させられた。臨終に「外奔の罪は誅に値するが、逆胡がなお中原に跨る中、この身が果たせなかったことが心残りだ」と述べ服毒した。
陽裕――流転の名臣、前燕の都城を設計
- 陽裕、字は士倫。右北平無終の人。幼くして父母兄弟を失うが叔父陽耽に才を見出された。刺史和演・王浚に用いられるが忌まれ不遇。石勒が幽州を得た際、棗嵩に幹才を推挙されるも身を隠して仕えず。
- 鮮卑単于段眷に招かれて出仕、段氏五代に仕え重んじられる。段遼に皝との和睦を諫めるも聞かれず燕郡太守に転出、石季龍が令支を落とすとその郡ごと降り、北平太守・尚書左丞を歴任。
- 段遼の降を巡る麻秋の敗戦に巻き込まれ捕虜となるが、名声を知る皝により釈放され重用された。大将軍左司馬として高句麗・宇文帰討伐の謀に参画、遷都後の和龍の城池・宮闕はすべて陽裕の設計による。謙虚清廉な人柄で流亡の士大夫の世話に努め、盧諶にも「忠清簡毅な人物は稀」と称された。六十二歳で没し、皝は深く悼んだ。