出自と叔父孫泰
- 孫恩、字は霊秀、琅邪の人で孫秀の一族。代々五斗米道を奉じた。叔父の孫泰、字は敬遠は、銭唐の杜子恭に師事した。杜子恭には秘術があり、人から瓜刀を借りたところ主人が返却を求めると「すぐに返そう」とだけ答え、後に刀主が嘉興に行く途中で船に躍り込んだ魚を割いたところ中から瓜刀が出てきたという。その神効はこの類であった。
- 子恭が死ぬと孫泰がその術を伝えたが、浮薄で狡猾な小才があり百姓を誑かし、愚民は神のごとく敬い財産を尽くし子女を差し出して福を祈った。王珣が会稽王司馬道子に言上し孫泰は広州へ流された。広州刺史王懐之は泰を郁林太守代行とし南越も帰服した。太子少傅王雅はもとより泰と親しく孝武帝に言上し、泰は養性の術に通じるとして召還された。道子は泰を徐州主簿としたが、なお道術で士庶を惑わし続け、次第に輔国将軍・新安太守にまで昇った。
- 王恭の乱の際、泰は私に義兵を集め数千人を得て国のために王恭を討ち、黄門郎孔道・鄱陽太守桓放之・驃騎諮議周勰らはこれに敬事し、会稽世子司馬元顕もしばしば泰の秘術を求めて訪ねた。泰は天下に兵が起こるのを見て晋の命運が尽きると考え、百姓を扇動し徒党を私に集め三呉の士庶の多くがこれに従った。当時、朝士は皆泰の乱を恐れたが、元顕との親密な間柄ゆえに誰も口にしなかった。会稽内史謝輶がその陰謀を暴くと、道子は泰を誅した。孫恩は海へ逃れた。人々は泰の死を聞き、蟬蛻して仙人になったと信じ、海中の孫恩に物資を供給した。孫恩は亡命者百余人を集め復讐を志した。
会稽挙兵
- 司馬元顕が呉会で暴政を行い百姓が不安になると、孫恩はその騒動に乗じ海から上虞を攻めて県令を殺し、そのまま会稽を襲って内史王凝之を殺害、衆は数万に達した。
- これに応じて会稽の謝鍼、呉郡の陸瑰、呉興の丘尪、義興の許允之、臨海の周胄、永嘉の張永及び東陽・新安ら合わせて八郡が一斉に蜂起し長史を殺して呼応、旬日のうちに衆は数十万に及んだ。呉興太守謝邈、永嘉太守謝逸、嘉興公顧胤、南康公謝明慧、黄門郎謝沖・張琨、中書郎孔道、太子洗馬孔福、烏程令夏侯愔らは皆殺害された。呉国内史桓謙、義興太守魏傿、臨海太守で新蔡王の司馬崇らは逃走した。
- 孫恩は会稽に拠って自ら征東将軍と号し、その党を「長生人」と称し異己の者を悉く誅殺せよと命じ、従わない者は嬰児にまで及んだため死者は十のうち七、八に及んだ。畿内の諸県も各所で蜂起し朝廷は震撼、内外に戒厳を布いた。衛将軍謝琰・鎮北将軍劉牢之を遣わし討伐させたが両軍とも転戦しながら進んだ。呉会は太平の日が長く人々は戦に慣れず武器も乏しかったため各地で敗亡した。賊は倉廩を焼き邑屋を焚き木を刊って井戸を埋め財貨を掠奪して会稽に集結した。従いきれない嬰児を抱えた婦女は袋に嬰児を入れて水に投げ「お前が先に仙堂へ登るのを見届けたら、私もすぐに従おう」と告げたという。
海への敗走
- 孫恩は八郡がこぞって呼応したと聞き「天下にもはや事なし。諸君とともに朝服して建康に至ろう」と語ったが、劉牢之が長江に迫ったと聞くと「浙江を割いても句践程度にはなれよう」と言い改め、牢之がすでに渡江したと知ると「私は逃げることを恥じない」と述べた。男女二十余万口を虜にし一斉に海へ逃げ込み、官軍の追撃を懼れて道すがら財宝や子女を捨てた。当時、東土は豊かで目に眩いばかりの品々が散乱していたため、牢之らは収拾に手間取り孫恩は再び海へ逃れることができた。朝廷は謝琰を会稽に置き、徐州の兵を海浦に戍させた。
隆安四年以降の攻防と死
- 隆安四年、孫恩は再び余姚に入って上虞を破り刑浦に至った。謝琰は参軍劉宣之に迎撃させ破ったため孫恩は退いたが、間もなく再び刑浦を侵し謝琰を殺害した。朝廷は震撼し冠軍将軍桓不才・輔国将軍孫無終・甯朔将軍高雅之を遣わして討たせ、孫恩は再び海へ戻った。朝廷は劉牢之を再び会稽に屯させ、呉国内史袁山松は扈瀆に塁を築いて海沿いを防備した。
- 翌年、孫恩は再び浹口に入り高雅之は敗れた。牢之が進撃すると孫恩は再び海へ退いた。転じて扈瀆を侵し袁山松を殺害、そのまま海を浮かんで京口へ向かった。牢之は西進して迎撃しようとしたが間に合わず、劉裕が兵を総べて海沿いに防いだ。戦うと孫恩の衆は大敗し狼狽して船に逃げ込んだ。再び衆を集め京都に向かおうとしたが朝廷が兵を並べて備えたため、新州まで来て進めず退き、北の広陵を侵して陥落させ、そのまま海を渡り北上した。劉裕・劉敬宣は鬱洲まで追撃し累戦の末、孫恩は再び大敗し次第に衰弱、沿海を南へ戻った。劉裕も海を要して追い、扈瀆で再び孫恩を大破、孫恩は遠く海中へ逃げ去った。
最期
- 桓玄が政を執った頃、孫恩は再び臨海を侵したが、臨海太守辛景が討ち破った。孫恩は窮まり海に身を投げて自沈し、妖党や妓妾らはこれを「水仙」と呼び、後を追って水に投じて死んだ者は百を数えた。
- 孫恩が海へ逃れた当初に虜にした男女は、その後の戦死・溺死・流離・人身売買を経て、孫恩の死んだ時点でわずか数千人が残るのみであった。しかし孫恩が謝琰・袁山松を戦死させ広陵を陥落させるなど、前後数十戦で殺害した百姓は数万人に及んだ。