出自と家庭の不祥事
- 祖約、字は士少、豫州刺史祖逖の弟である。初め孝廉として成皋令となり、兄逖と互いに友愛が篤かった。永嘉末年、祖逖に従って長江を渡った。元帝は制を称すると祖約を掾属に引き、陳留の阮孚と斉名した。のち従事中郎に転じ選挙を掌った。
- 祖約の妻は男子がなく嫉妬深く、祖約もあえて逆らわなかった。ある夜、外で寝ていたところ何者かに傷つけられ、妻の仕業ではないかと疑われた。祖約は職を退くことを求めたが帝は許さず、祖約は右司馬営の東門から密かに出て行った。司直劉隗はこれを弾劾し「祖約は寵幸を受け選曹の顕職にありながら、変事が家内から起き身に傷を負い、髪膚を損なった。命に背いて軽々しく出て行った以上、明智で身を保つこともできず恩を裏切っているので貶黜すべきだ」と述べたが、帝は罪に問わず、劉隗が再三執奏しても最後まで許されなかった。
豫州刺史継承と怨望
- 兄祖逖が譙沛で功を立てると祖約も次第に任遇されるようになった。逖が卒すると、祖約は侍中から代わって平西将軍・豫州刺史となり逖の軍勢を領した。異母兄の光禄大夫祖納は密かに帝に「約は内心陵上の心を懐いており抑えるべきだ。今、左右に置き権勢を与えれば乱の端緒となろう」と言ったが、帝は聞き入れなかった(当時の人は祖納が異腹であることを理由に祖約の寵貴を妬んでこう言ったとも噂した)。祖約には結局、士卒を懐柔する才はなく、部下の信望を得られなかった。
- 王敦が挙兵すると祖約は京都に帰り防衛に当たり、寿陽に軍を進めて敦の任じた淮南太守任台を追い出し、その功で五等侯に封じられ鎮西将軍に進み寿陽に屯し北境の藩屏となった。しかし祖約は自らを郗鑒・卞壺に劣らぬ名家と自負しながら明帝の顧命に与れず、開府も望んだが多くの要求が許されなかったため怨望を抱くようになった。石聡がしばしば圧迫した際、祖約は何度も救援を求めたが官軍は来なかった。石聡が退いた後、朝議で塗塘を築いて胡寇を防ごうとしたことにも祖約は自分を見捨てる措置だと感じ、憤りを深めた。太后が蔡謨を遣わして慰労させたとき、祖約は目を怒らせ袂を払って朝政を非難した。
蘇峻挙兵への加担と敗走
- 蘇峻が挙兵すると、祖約を推し立て執政の罪を鳴らしたため、祖約はこれを聞いて大いに喜んだ。従子の祖智・祖衍はともに陰険で乱を好み、この企てに賛同を促した。祖約は逖の子で沛内史の祖渙、女婿の淮南太守許柳に兵を率いさせ蘇峻に合流させた(逖の妻は許柳の姉であったため強く諫めたが従わなかった)。
- 蘇峻が京都を陥落させると矯詔により祖約は侍中・太尉・尚書令とされた。潁川の陳光がこれを攻めた際、祖約の側近閻禿が容貌が似ていたため陳光に約と誤認され捕らえられ、祖約自身は垣を越えて難を逃れた。陳光は石勒のもとへ逃げ、一方で祖約配下の諸将は密かに石勒と通じ内応を約した。石勒が石聡を遣わして攻めさせると祖約の衆は潰走し暦陽に逃れた。祖約は兄の子祖渙を遣わして皖城の桓宣を攻めさせたが、毛宝が桓宣を援けたため渙は敗れた。趙胤がさらに甘苗を三焦から暦陽へ向かわせると祖約は懼れて夜中に逃亡し、部将牽騰は衆を率いて降伏した。
石勒による誅殺
- 祖約は左右数百人を率いて石勒のもとへ逃げ込んだが、勒はその人柄を軽んじ長らく会おうとしなかった。勒の将程遐は「天下がおおよそ定まった今、忠逆を明らかにすべきだ。これは漢の高祖が丁公を斬った理由と同じだ。今、事君に忠なる者は皆抜擢され、背叛して臣たらざる者は皆誅されているからこそ天下は大王に帰服している。祖約がなお生きているのは不可解だ。しかも約は多くの賓客を引き入れ、郷里の田地を先住者から奪っており土地の主たちの怨みは深い」と勒に進言した。
- そこで勒は祖約に「祖侯が遠来したのに喜びを分かち合っていない。子弟一同を集めてほしい」と偽った。当日、勒は病と称して姿を見せず、程遐に祖約とその一族を招かせた。祖約は禍が及ぶことを知り、大いに酒を飲んで酔い、市に至って外孫を抱いて泣いた。ついに勒は祖約を殺し、その親族百余人を悉く滅ぼし、婦女・伎妾を諸胡に分け与えた。
附伝(王安と道重)
- かつて祖逖には王安という胡人の奴がおり、厚く扱っていた。逖は雍丘にいた時、王安に「石勒はお前と同じ種族だ。私はお前一人を引き止めはしない」と告げ、厚く物を与えて送り出し、王安はのち石勒の将となった。
- 祖氏が誅せられた際、王安は多くの従者とともに市で処刑を見物する体で潜入し、祖逖の庶子祖道重(当時十歳)を密かに連れ出し、僧に変装させて匿った。石氏(後趙)が滅んだ後、道重は帰還した。