出自と壬午兵の乱
- 張昌はもと義陽の蛮族出身。若くして平氏県の吏となり、力量人に勝り、常に自ら占って富貴になると言っていた。攻戦を論ずるのを好んだが同僚には笑われていた。
- 李流が蜀を侵した際、張昌は半年潜伏した後、党を数千人集め幢麾を盗み取り、朝廷が李流討伐のため人を募集していると偽って触れた。折しも「壬午の詔書」が発せられ武勇の者を益州へ赴かせようとしたが、天下は多難で人々は西征を嫌い、張昌の党はこれに乗じて人心を惑わし、百姓は行くことを拒んだ。しかし詔書の督促は厳しく、期限を過ぎた郡県の二千石は免官とされたため、郡県の官長は自ら人を駆り立て、それがかえって流民の屯集と劫掠を招いた。この歳、江夏は豊作で、流人で食を求める者が数千に及んだ。
石岩山挙兵と偽朝廷の樹立
- 太安二年、張昌は安陸県の石岩山に屯し(郡から八十里)、流人や戍役を避ける者らが多く従った。張昌は姓名を李辰と改めた。太守弓欽が討伐に出たが敗れ、張昌の勢力は日々増して郡を攻めるに至った。欽は大敗して家族を連れ沔口へ南奔した。
- 鎮南大将軍新野王司馬歆は騎督靳満に随郡西で討たせたが満は敗走し、張昌はその武器を得て江夏を領有し、その府庫を占有した。
- 妖言を流し「聖人が出る」と称し、山都県の吏丘沈を江夏で捕らえて「聖人」と名づけ、盛大な車服で迎え天子に立て百官を置いた。丘沈は姓名を劉尼と改め漢の後裔と称し、張昌を相国とし、兄の張味を車騎将軍、弟の張放を広武将軍としてそれぞれ兵を領した。
- 石岩の中に宮殿を造り、岩上に竹で鳥の形を作り五彩の衣を着せ肉を傍らに置いて鳥を集め鳳凰が降ったと偽り、珠袍・玉璽・鉄券・金鼓が自然に至ったなどと称した。赦書を下し年号を「神鳳」と建て、郊祀・服色は漢の故事に依った。募集に応じない者は一族皆殺しにされた。
- さらに「江淮以南は反逆を図っており官軍が大挙して誅殺する」との流言を撒き、人々は互いに扇動し合い、江沔一帯で一斉に蜂起して張昌に応じ、旬月のうちに衆は三万に達した。皆赤い頭巾を被り毛を纏った。江夏・義陽の士庶でこれに従わない者はなく、ただ江夏の旧姓、江安令王傴と秀才呂蕤だけが従わなかった。張昌は三公の位で彼らを招いたが、二人は密かに一族を率いて汝南へ逃げ豫州刺史劉喬を頼った。郷人の期思令李権・常安令呉鳳・孝廉呉暢らは善士を糾合し、五百余家を得て王傴らに追随し、妖逆に加わらなかった。
五州席巻と官軍の反撃
- 新野王司馬歆は上言し「妖賊張昌・劉尼は自ら神聖と称し犬羊のごとき徒党は万を数え、赤頭毛面の兵は刀戟を振るいその鋭鋒は当たるべからず。台に三道から救援を命じられたい」と請うた。劉喬は諸軍を率い汝南に拠って賊を防ぎ、前将軍趙驤は精卒八千を率い宛に拠り平南将軍羊伊の防衛を助けた。
- 張昌は将軍黄林を大都督として二万人を率い豫州に向かわせ、先鋒の李宮が汝水沿いの住民を掠めようとしたが、劉喬の将軍李楊がこれを迎撃し大破した。黄林らは東の弋陽を攻めたが太守梁桓は城を固守した。また張昌の将馬武は武昌を破りその太守を殺害し、張昌自らその衆を領した。
- 西に向かい宛を攻めて趙驤を破り羊伊を殺害。さらに襄陽を攻めて新野王司馬歆を殺害した。張昌の別将石冰は東で江・揚の二州を破り偽りの守長を置き、当時五州の境は皆その脅威に屈した。さらに陳貞・陳蘭・張甫らを遣わし長沙・湘東・零陵の諸郡を攻めた。
- 張昌は五州にまたがり牧守を立てたが、いずれも桀盗の小人にすぎず禁制はなく、ただ劫掠を専らとしたため人心は次第に離れた。
敗滅
- この歳、朝廷は甯朔将軍・領南蛮校尉劉弘を宛に鎮させ、弘は司馬陶侃・参軍蒯桓・皮初らに命じ竟陵で張昌を討たせた。劉喬もまた将軍李楊・督護尹奉に江夏へ向け総兵させた。
- 陶侃らは張昌と激戦を重ね大破し、降伏者は万を数え、張昌は下俊山に逃げ隠れた。翌年秋、ついに捕らえられ首は京師に伝えられ、同党はことごとく三族を夷せられた。