韓友
- 韓友、字は景先、廬江舒の人。書生として会稽の伍振から『易』を学び、占卜に優れ、住居や墓所の相を図ることができ、また京房・費長房の厭勝の術(呪術で災いを鎮める術)も行った。
- 龍舒長の鄧林の妻が長年病み死に瀕していたが、医者も巫も匙を投げていた。友がこれを占い、屏風に野猪の絵を描かせその臥所に置かせると、一晩で快方に向かい病は治った。舒県廷掾の王睦は病死したが魂が戻った。友がこれを占い、丹で日月を描いた板を寝床の頭に置かせ、さらに豹の皮の馬の泥除けを敷布団の上に敷かせると、たちまち治った。
- 劉世則の娘は魅(憑き物)に長年悩まされ、巫が祈祷して空の墓や古城の間を掘り、狸や鼉(ワニ)を数十匹見つけたが病は治らなかった。友がこれを占い、布の袋を作らせ、娘が発作を起こす時刻に合わせて窓の間に張らせ、友は戸を閉めて気を発し、何かを追い立てるようにした。しばらくすると袋が吹かれたように大きく膨らむのが見え、そこでこれを破ると娘はなお大きく発作を起こした。友はさらに二つの皮袋を作り重ねて張らせ、前と同じようにすると、袋は再び膨らんだ。急いで袋の口を縛り、木に二十日ほど吊るしておくと次第にしぼみ、開けてみると二斤の狐の毛が入っており、娘の病は治った。
- 宣城の辺洪が4月に家の安否を友に占わせたところ、友は「あなたの家には兵の禍があり、その禍は大変重いものです。柴を70束伐って庚の方角に積み、7月丁酉の日に火をつけて焼けば、咎めを消すことができるでしょう。そうでなければ、その凶事は言葉にできないほどです」と言った。洪はすぐに柴を集めたが、当日は大風が吹き火をつけられなかった。
- 洪は後に広陽領校となり、母の喪で帰郷した際、友が訪ねてきた。既に日が暮れていたが、友は従者に告げて「急ぎ支度をせよ、私は今夜のうちに去る」と言った。従者が「今日はもう暗く、数十里は草の中を歩かねばなりません、なぜ急いで去る必要がありますか」と言うと、友は「お前の知るところではない、この場所は血が地に満ちている、どうして留まっていられようか」と言い、食事も待たずに去った。
- その夜、洪は突然発狂し、二人の子を絞め殺し、妻も殺し、さらに父の妾二人を斬りつけて傷を負わせ、そのまま逃走した。翌日、一族が遺体を収めに訪れ、洪を捜索したところ、数日後、屋敷前の林の中で見つかったが、既に首を吊って死んでいた。
- 宣城太守の殷祐が病にかかり、友がこれを占い「7月晦日、大きな鸜鵒(八哥鳥)が庁事(役所)の上に集まってくるでしょう、慎んでこれを捕らえるべきです。もし捕まえられれば良いですが、捕まえられなければ禍となるでしょう」と言った。祐は謹んで備えをし、当日、果たして尾の長さ九尺の大きな鸜鵒が庁事の上に集まり、これを捕えることができた。祐はその後、石頭督護に昇り、後に呉郡太守となった。
- 友の占卜は大変よく的中し、災いを消し禍を転じることは、みな効験があった。干宝がその理由を尋ねると、友は「筮占は五行の相生相殺を用いる、方剤に基づいて薬を投じ病を治すようなもので、冷熱を互いに救い合わせるのだ。治るか治らないかは必ずしも分からない」と答えた。友は元康6年(296年)に賢良に推挙され、元帝の渡江後は広武将軍とされた。永嘉末年に没した。