晉書卷九十四 列傳第六十四 翟湯

翟湯

  • 翟湯、字は道深、尋陽の人。篤実で純朴な行い、仁愛と謙譲、廉潔を旨とし、世事を意に介さなかった。自ら耕して食し、人が贈り物をしても釜一つ、穀物一升たりとも受け取らなかった。永嘉末年、賊の被害が相次いだが、湯の名声と徳を聞いて誰もあえて彼を害さず、郷里の人々はこれに頼った。司徒の王導が招いたが応じず、県内の南山に隠棲した。
  • 始安太守の干宝は湯と家柄のつながりがあり、船で食糧を届けさせ、役人に命じて「翟公は廉潔謙譲な人だ、書状を届けたらそのまま船を置いて帰れ」と言った。湯は返礼する手立てがなかったため、絹の品物と交換し、宝のもとへ送り返した。宝はもともと純粋な贈り物のつもりであったのに、かえって湯を煩わせることになり、ますます恥じ入り感嘆した。
  • 咸康年間、征西大将軍の庾亮が上表して彼を推薦し、成帝は国子博士に召したが、湯は応じなかった。建元初年(343年)、安西将軍の庾翼が石季龍を北伐する際、多くの奴僕・小作人を徴発して軍役に充てたが、担当官に特に湯への割り当てを免除させる勅命が出た。しかし湯はすべての使用人を郷里の役人に委ね、役人は勅命に従いこれを一切受け取らなかった。湯は割り当てられた制限の範囲内で使用人を解放し、普通の戸籍の民とさせた。康帝は再び散騎常侍として湯を召したが、老病を理由に固く辞退し、赴かなかった。73歳で家にて没した。
  • 子の荘、字は祖休。若くして孝行と兄弟愛で知られ、湯の操を受け継ぎ、人と交わらず、自ら耕して食し、俗事を口にせず、ただ釣りと狩りを業とした。成長すると狩りはやめた。ある人が「漁も狩りも同じく生き物を害する行為なのに、なぜ先生は一方だけをやめるのか」と尋ねると、荘は「狩りは自分から仕掛けるものだが、釣りは魚が自ら(餌に)近づくものだ。両方を一度にやめることはできないので、まず度が過ぎる方を控えたのだ。しかも餌を貪って鉤を呑むのは、私の意志ではない」と答えた。当時の人々はこれを賢明な言葉と評した。晩年は釣りもやめ、粗末な門の中で静かに暮らし、豆の粥と水だけで過ごした。州府の礼を尽くした招聘や公車での召命にも一切応じなかった。56歳で没した。
  • 子の矯もまた高い節操を持ち、たびたび招聘を辞退した。矯の子の法賜は、孝武帝が散騎郎として召したが、これも赴かなかった。代々隠遁の行いを伝えたという。