晉書卷九十四 列傳第六十四 韓績

韓績

  • 韓績、字は興斉、広陵の人。その祖先は乱を避け呉の嘉興に住んだ。父の建は呉に仕え大鴻臚に至った。績は若くして文学を好み、隠退を操とし、粗末な衣と質素な食事で当世と交わらなかった。これにより東方の地でこぞって彼を敬った。司徒の王導がその名を聞き掾に招いたが、応じなかった。咸康末年、会稽内史の孔愉が上表して彼を推薦し、詔により安車束帛(賢者を迎える厚遇の礼)で召された。尚書令の諸葛恢は績の名望がまだ軽いとして、full な礼を整えるべきでないと奏上したため、博士に召し拝することになった。老病を称して応じず、家で没した。
  • 当時、高密の劉鮞、字は長魚、城陽の邴郁、字は弘文は、ともに高い名声があった。鮞は幼くして俗を慕わず、成長すると古を慕い、篤く学び行いを励み、その感化は郷邑に広まった。郁は魏の徴士邴原の曾孫で、若くして原の風格を持ち、身を慎み清潔に保ち、口にみだりなことを語らず、耳にみだりなことを聞かず、端然として恭しく、その挙動には礼があった。咸康年間、成帝は広く異行の士を求め、鮞・郁はともに公卿から推薦された。これにより韓績や翟湯らの先例にならい博士として召された。郁は病を理由に辞退し、鮞は使者に従って京師に赴いたが、自ら老齢を述べて拝命しなかった。それぞれ天寿を全うして没した。