龔壯
- 龔壯、字は子瑋、巴西の人。自らを清らかに保ち、同郷の譙秀と並び称された。父の叔は李特に殺され、壮は長年喪を除かなかったが、力が弱く復讐を果たせなかった。李寿が漢中に駐屯し李期(李特の孫)と仲違いした際、壮は寿を利用して復讐しようと考え、寿を説いた。「あなたがもし西の地を統一し晋に藩として臣従すれば、人々は必ず喜んで従うでしょう。小を捨てて大に就き、危うきを安きに換えることは、この上ない策です」。寿はこれに同意し、軍を率いて期を討ち、果たしてこれを破った。
- しかし寿はなお偽号を称し続け、壮に官位を与えようとしたが、壮は仕えないことを誓い、贈り物も一切受け取らなかった。折しも長雨が続き民が飢えたため、壮は寿に上書し、晋に帰順して天の心にかない人々の望みに応えれば、永く国の藩屏となり子孫にまで福が及ぶと説いた。寿は書を読んで内心恥じ入ったが、これを秘して公にしなかった。さらに寿が胡(北方異民族の政権)に使者を送ろうとした際も、壮は諫めたが、寿はまた聞き入れなかった。
- 壮は、あらゆる行いの根本は忠孝に勝るものはないと考え、寿を利用して期を殺すことで私怨を晴らし、さらに寿を朝廷に帰順させることで臣としての節義を示そうとした。しかし寿がこれに従わなかったため、壮はついに耳が聞こえないふりをし、手も物を扱えないと称し、生涯二度と成都に赴かず、ただ経典を研究し文章を練るのみで、李勢の時代に没した。
- かつて壮は、中原には経学が盛んであるのに巴蜀は鄙陋であり、加えて李氏の乱に遭って学ぶ者もいなくなったことを常に嘆き、『邁徳論』を著した(文は省略)。