任旭
- 任旭、字は次龍、臨海章安の人。父の訪は呉の南海太守。旭は幼くして父を失い体も弱かったが、幼少より学問に励んだ。成長すると清らかで慎み深い操を立て、俗世の風潮に染まらず、郷里の人々から推され愛された。郡の軍事を司る蔣秀はその評判を喜び、功曹として招いた。秀は官にあって貪欲不正で、しばしば法を守らなかったため、旭は厳しく諫めた。秀が聞き入れなかったため、旭は職を辞し、門を閉ざして学問を講じ、志を養った。
- 長く経ってから秀は罪に問われ捕らえられたが、旭は困窮しながらも懸命に世話をし、秀は感慨深く「任功曹はまことの人物だ。私は彼の正しい諫めに背いてこのような境遇に至った。もはや何も言うことはない」と嘆じた。
- まもなく孝廉に推され郎中に任ぜられ、州郡はさらに郡の中正に推挙したが、固辞して帰郷した。永康初年、恵帝が広く清廉で優れた士を求めた際、太守の仇馥が旭の清廉潔白と博学を推薦し、詔により州郡が礼をもって送り出すよう命じられたが、旭は朝廷が多事であることから隠遁を志し、病と称して赴かなかった。まもなく天下は大いに乱れ、陳敏が反乱を起こすと、江東の名士豪族はみな拘束されたが、旭と賀循だけは節を守って屈しなかった。敏はついに彼らを屈服させることができなかった。
- 元帝が初めて江東に鎮した際、その名を聞き参軍として招き、自ら手紙を送って必ず来るよう求めたが、旭は病を理由に固辞した。後に帝が鎮東大将軍に昇進すると再び招き、左丞相となると祭酒に招いたが、いずれも応じなかった。中興が確立すると公車で召されたが、折しも母の喪に遭った。
- 当時、司空の王導が学校の設立を提言し、天下の経学に通じた士を選んでいたが、旭は会稽の虞喜とともに隠者の学識により召された。実施される前に王敦の乱が起こり、まもなく帝が崩じたため、この件は立ち消えとなった。明帝が即位すると再び給事中に召されたが、旭は重病と称して数年間到着しなかった。尚書は遅延を理由に彼を除名しようとしたが、僕射の荀崧はこれを不可と論じた。太寧末年、明帝は再び礼を整えて旭を召す詔を下したが、下されたばかりで帝が崩じた。咸和2年(327年)に没した。太守の馮懐は九卿の位を追贈すべきと上表したが、折しも蘇峻の乱が起こり、この件も実現しなかった。
- 子の琚は大宗正の位に至り、家で没した。