李充
- 李充、字は弘度、江夏の人。父の矩は江州刺史。充は幼くして孤児となり、父の墓の柏の木がかつて盗賊に伐られた際、自ら手を下してこれを討ったことで名を知られた。楷書に優れ、鐘繇・索靖に匹敵すると世に重んじられた。丞相王導の掾に召され、記室参軍に転じた。
- 若くして刑名の学を好み、虚飾に走る士人を強く批判し、『学箴』を著した。この作品は、『老子』が「仁義を絶ち去れば家は孝慈に帰る」と説くのは仁義そのものを否定するのではなく、仁義を名目に利を求める者が多いことを憂えたものであると説く。道徳が失われて仁義が現れ、仁義が現れて名利が生じ、礼教の弊害はここに由来する。先王は道徳が行われないため仁義で教化し、仁義が徹底しないため礼律で規制したが、規制が厳しくなるほど偽りも広がった。老荘は無為の益と争欲の門を塞ぐことを明らかにしたが、真に霊智を極め通変の和を総括できるのは聖人のみであり、一代の制度を変革し千年の遺風を残すには聖人が不可欠であると論じる。聖人の言葉は訓辞となり、行いは万物の規範となり、道が通じれば時とともに栄え、理が失われれば世とともに廃れる。ゆえに万物には必ず根本があり、事には必ず主があり、その責は聖人に帰し累は事跡に残される。聖人の教えはその末(表れ)を救い、老荘はその本(根源)を明らかにするもので、本末の道筋は異なっても教えとしては一つである。人が迷いを続けて久しいのは、形あるものは多く見えても道に達する者は少ないためであり、聖人の門を見ずに事物の跡ばかりを追えば、追うほど本から遠ざかる。それゆえ華やかな表面と薄俗が共に興り、道の妙旨と純朴な風が共に絶える。後進がこの惑いにより礼学を捨てて無為の風のみを希求し、名教の効用を見ずに衰退のみを見ることを恐れ、道家の要旨を引きつつ世の教えとの調和を図り、迷いを解く一助として本篇を著したものであった。末尾に韻文(賛)を添え、太古の混沌から聖跡・賢名が現れ、質文が代わる代わる興り、礼と刑罰が生じた経緯、そして本来の自然を失わずに仁義を実践することの大切さを詠んだ。
- 征北将軍褚裒がまた参軍に招いた。充は家が貧しかったため、切に外任を求めた。裒が県令に任じようと試しに尋ねると、充は「窮した猿が林に飛び込もうとする時、木を選ぶ余裕などありましょうか」と答え、県令に任ぜられた。母の喪に遭い、服喪後、大著作郎となった。
- 当時、典籍は混乱していたが、充は重複を除いて分類整理し、経・史・子・集の四部に分けて条理を通し、秘閣(宮中図書館)はこれを永久の規範とした。中書侍郎に昇り、官にあって没した。充は『尚書』および『周易旨』六篇、『釈荘論』上下二篇に注し、詩賦表頌などの雑文240篇を著し、世に行われた。
- 子の李顒もまた文才があり、多くの著作を残し、郡から孝廉に推された。充の従兄の李式は物静かな性格で知られ、楷書・隷書に優れた。中興初年、侍中にまで至った。