韋謏
- 韋謏、字は憲道、京兆の人。儒学を優雅に好み、著述に長け、諸子百家の秘要にも通じないものはなかった。劉曜に仕えて黄門郎となった。その後石季龍(石虎)に仕え、散騎常侍に任ぜられ、七郡の太守を歴任し、いずれも清らかな治績で知られた。
- また廷尉に召され、識者は彼を于定国・張釈之になぞらえた。前後して四度九卿に、六度尚書に、二度侍中に、二度太子太傅に就き、京兆公に封ぜられた。直諫を好み、軍国の要事を論じ、多くが採用された。
- 『伏林』三千余言を著し、これを敷衍して『典林』二十三篇とした。著述・当代記録の総量は数十万言に及び、いずれも深い見識と文才を備えていた。
- 冉閔の代に至り、光禄大夫に任ぜられた。当時閔は子の胤を大単于に任じ、降伏した胡族千人余をその麾下に置いていた。謏は諫めて「今、降伏した胡は数千いますが、これを従前どおりに扱うのは確かに懐柔の恩によるものです。しかし胡・羯はもともと仇敵であり、今の帰順は単に命を全うするためにすぎません。もし刺客が現れれば、事態は瞬時に急変し、後悔しても及びません。昔の人も『一人でさえ軽々しく信じてはならない、まして千人においてをや』と言っています。願わくば降伏した胡を退け、単于の号を廃し、易経の戒め(苞桑の誡め)を深く思うべきです」と述べた。閔は懐柔・平定に意を注いでいたため、これを聞いて激怒し、謏を誅殺し、あわせてその子の伯陽も殺した。
- 謏は性格が謹厳ではなく、自らの功を誇ることを好んだため、批評者たちもこれを軽んじた。かつて伯陽に、代々の先祖の栄光を語りながら言葉遊び(字謎)を仕掛けたところ、伯陽が機知に富んだ切り返しで謏をやり込め、謏は恥じ入って言葉が出なかった。当時の人々はこれを語り継ぎ、笑い話とした。