文立
- 文立、字は広休、巴郡臨江の人。蜀の時代に太学に遊学し、『毛詩』『三礼』を専攻し、譙周に師事した。同門の間では、立は顔回に、陳寿・李虔は游夏(子游・子夏)に、羅憲は子貢になぞらえられた。蜀では尚書に至った。
- 蜀の滅亡後、秀才に挙げられ郎中に任じられた。泰始初年、済陰太守に任ぜられ、その後太子中庶子に入った。
- 諸葛亮・蔣琬・費禕らの子孫が中原に流されている境遇を上表し、都で登用すべきこと、それによって巴蜀の人心を慰め、また呉人の期待にも応えられることを訴え、いずれも実現した。
- 詔に曰く、「太子中庶子文立は忠貞にして清廉実直、思慮と器量を備えている。かつて済陰にあって政事を明らかにし、その後東宮に仕えて輔導の任を尽くした。昔、光武帝は隴・蜀を平定した際、その地の賢才をことごとく登用した。これは辺境の埋もれた人材を抜擢し、異なる土地を救済するためである。よって立を散騎常侍とする。」
- 蜀の旧尚書、犍為の程瓊は徳業高く、立と深い交わりがあった。武帝がその名を聞き立に尋ねたところ、立は「臣は彼をよく知っておりますが、既に八十近く、性格は謙虚で控えめであり、もはや世に出る望みもないため、あえて奏上しませんでした」と答えた。瓊はこれを聞いて「広休(文立)は党派に偏らないと言えよう。だから私は彼を良しとするのだ」と言った。
- 当時西域から馬が献上され、帝が立に「馬はどうか」と問うと、立は「太僕にお尋ねください」と答えた。帝はこれを善しとした。
- 衛尉に昇進し、咸寧末年に没した。著した章奏・詩賦数十篇が世に伝わった。