晉書卷九十 列傳第六十 良吏
序
- 漢の宣帝は「民が安んじて暮らせるのは、政治が公平で訴訟が正しく裁かれるからだ。これを共にするのは良二千石(優れた地方長官)のみ」と述べた。地方官は民を導く根本である。鄭の子産、西門豹、黄霸、文翁ら、それぞれの善政は後世の規範とされた。
- 晋は泰始の受禅以来、農事と民生に心を配り、たびたび詔を発して官吏を戒めたが、帝の寛厚さゆえに賄賂や情実が横行することもあった。恵帝・懐帝期には中原が乱れ、江左でも権門の専横が続いたため、良吏の実績は限られたものとなった。それでも王導・謝安のような治世の柱があり、政績の優れた者たちの事績を集めて《良吏伝》とする。
魯芝――曹爽への諫言と清廉
- 字は世英、扶風郿の人。父を郭氾の乱で失い、苦難の中で学問に励んだ。魏の郭淮に評価され、諸葛亮の隴右侵攻の際には別駕として活躍。曹真・王朗らに用いられ天水太守として辺境防衛に尽力し、民に慕われた。
- 曹爽の司馬として仕え、諫言を容れられなかったが、司馬懿の曹爽誅殺の際には自ら門を破って爽の下に馳せ参じ、「天子を奉じて許昌に拠り、天下に号令すべきだ」と諫めたが、爽は聞かず誅殺された。芝も連座して死罪となったが、無実を訴えることなく罪を受け入れた態度を司馬懿に評価され赦された。
- 后に并州刺史・大鴻臚等を歴任し、武帝からは清廉さを称えられて邸宅を賜った。老齢により辞任を願い出て光禄大夫となった。羊祜が自らの車騎将軍の位を魯芝に譲ろうとしたほど人望が篤かった。泰始九年、享年八十四で没し、諡は貞。
胡威――父子の清廉
- 字は伯武、淮南寿春の人。父の胡質は清廉で知られた荊州刺史。威が父を訪ねた際、貧しさから驢馬一頭で旅をした逸話、父から餞別の絹一匹を受けた際に出所を確かめた逸話が伝わる。父の部下が密かに旅費を援助しようとしたことを知り、それを断って父に報告させ、父はその部下を処罰した。
- 武帝との対話で「父は清廉さを人に知られることを恐れ、私は知られないことを恐れる」と答え、謙虚で率直な人柄を評価された。徐州・青州刺史等を歴任し善政を敷き、太康元年に没した。諡は烈。
胡威の子・胡奕
- 平東将軍に至った。威の弟胡羆も益州刺史・安東将軍を務めた。
杜軫――蜀の名吏
- 字は超宗、蜀郡成都の人。譙周に師事した。鄧艾の蜀侵攻の際、太守に退避を勧める先見の明を示した。建寧令として夷夏に慕われる善政を敷き、贈り物を一切受けなかった。池陽令としても評判が高く、生前から祠が建てられるほどであった。尚書郎として博識で知られ、涼人李驤と並び「蜀に二郎あり」と称された。享年五十一で没した。
杜軫の子・杜毗
- 秀才に挙げられ尚書郎等を歴任、洛陽陥落後に江南に渡り益州刺史となったが、杜弢の反乱に遭遇して殺された。
杜毗の弟・杜秀
- 羅尚の主簿を務めたが、李驤に捕らえられ司馬への任官を拒んで殺された。
杜軫の弟・杜烈
- 政事に明るく孝廉に挙げられ、平康・安陽令を歴任、兄軫の死後は甥の後見のため辞官を願い出た。湘東太守等を務め病没した。
杜烈の弟・杜良
- 秀才に挙げられたが、州の大中正を補し没した。
竇允――浩亹長の善政
- 字は雅、始平の人。寒門から出て清廉に自らを律した。浩亹長として農事を勧め民の負担を均した功績が泰始年間の詔で表彰され、臨水令・鉅鹿太守として善政を続けた。
王宏――農政の功と晩節の失
- 字は正宗、高平の人。汲郡太守として荒地五千余頃を開墾させる功績を挙げ、飢饉の中でも管轄内で不足が出なかったことが武帝の詔で称えられた。
- しかし後に衛尉・河南尹・大司農では苛烈な統治に転じ、罪人への虐待や恣意的な赦免で弾劾されたが、過去の功績により罪を贖われた。司隷校尉としても行き過ぎた風俗取締り(婦人の衣服検査等)で世の批判を浴び免官された。太康五年に没した。
曹攄――冤罪を晴らし囚人を信じた地方官
- 字は顏遠、譙国譙の人。臨淄令として、姑を殺したと疑われた寡婦の冤罪を見抜いて雪いだ。年末に死刑囚を一時帰宅させ、全員が期日通りに戻った逸話で「聖君」と称えられた。洛陽令として、行方不明の宮門の馬具を門番の火の不始末と見抜いて解決するなど、明断で知られた。
- 斉王冏の記室督として、驕り高ぶる冏に「盛んなれば衰えるのが天理、功成り名遂げれば退くべし」と諫めたが容れられなかった。永嘉二年、流民の反乱討伐で部下の裏切りにより孤立し、戦死した。民衆はまるで父母を失ったかのように悲しんだ。
潘京――機知に富む地方官
- 字は世長、武陵漢寿の人。太守趙廞との問答(武陵の名の由来)で機知を示し、州の推薦策問でも「今や忠臣として仕える身、孝子ではいられない」と当意即妙に応じた。太廟建立に際して「賀すべきではなく問訊すべき」との見識を示した。尚書令樂広に才を認められ勤学し、太守戴昌との論談でも認められた。巴丘・邵陵・泉陵の令を歴任し善政を敷いた。享年五十で没した。
范晷――西涼での撫民
- 字は彦長、南陽順陽の人。裴楷に推挙され各地の太守を歴任。涼州・雍州刺史として、荒廃した西方の地で農桑を勧め民を安んじた。元康年間、官のまま没した。
范晷の子・范広
- 字は仲将。姉の遺児を連れて江南に逃れる際、盗賊の中でも見捨てなかった。堂邑令として、公務中の丞劉栄に節目ごとの帰省を許すなど人情味ある統治を行った。飢饉の際は私財を投じて数千斛の穀を放出し、流民が集まって戸口が十倍に増えた。官のまま没した。
范晷の子・范稚
- 早くに名を知られ大将軍掾に召されたが早世した。子の范汪には別伝がある。
丁紹――冀州の善政
- 字は叔倫、譙国の人。広平太守として善政を敷き、周辺が乱れる中でも郡内は平穏だった。南陽王模の危機を救援し、模から生前に頌徳の碑を建てられた。徐州・冀州刺史を歴任し、汲桑討伐の功、羯族討伐の功で名を挙げたが、永嘉三年に病没し「これは冀州を滅ぼす天意か」と嘆いたという。
喬智明――囚人への恩情
- 字は元達、鮮卑前部の人。両親を早く失い孝行で知られた。隆慮・共二県の令として「神君」と称された。父の仇討ちをした囚人張兌の家族事情を憐れみ、一時的に妻を獄に入れて子をなさせ、恩赦で救ったという逸話が伝わる。成都王穎に仕えたが、恵帝を奉迎すべしとの進言が容れられず、後に劉曜に仕えた。
鄧攸――棄子と清廉な統治
- 字は伯道、平陽襄陵の人。七歳で父母・祖母を相次いで失い、九年の喪に服した。占夢の逸話(水辺の女と獣の頭)や、祖父の恩官を辞退しなかった清廉さが伝わる。賈混に人物を見込まれ娘を娶った。
- 永嘉末、石勒に捕らえられたが、旧知の門番や長史張賓の取りなしで助命され、参軍として重用された。火事を弟の妻の過失として引き受け罪を免れさせるなど義理堅い一面もあった。
- 石勒軍からの逃避行で、自分の子と弟の遺児の両方を救えないと判断し、弟の血筋を絶やさぬために我が子を捨てるという苦渋の決断をした逸話が特に有名である。
- 新鄭の李矩、荀組の下を経て江東に渡り、元帝に仕えて呉郡太守となった。俸禄を受けず私財も投じて飢饉の民を救済し、規則を破ってでも倉を開いて民を救ったため弾劾されたが、赦された。離任の際、民衆数千人が船を引き留めたため夜中にひそかに出立したという「鄧侯挽不留」の故事で知られる。
- 侍中・吏部尚書等を歴任し、清貧を貫いた。子を捨てた後は実子に恵まれず、妾を迎えたが甥の娘と判明し以後は妾も置かなかった。「天道無知、鄧伯道をして児無からしむ」と当時の人々に惜しまれた。咸和元年に没した。
吳隱之――貪泉を飲んでも節を貫いた広州刺史
- 字は処默、濮陽鄄城の人、魏の侍中呉質の六世孫。若くして清廉な操を持ち、父の喪では哀慟が甚だしかった。太常韓康伯の母(殷浩の姉)が隠之の哭声に心動かされ、康伯に「もし人事を掌るならこのような人物を用いよ」と諭した逸話が伝わる。
- 桓温に才を認められ、晋陵太守として妻が薪を背負うほどの清貧な生活を貫いた。廷尉・御史中丞等を歴任し、俸禄を親族に分け与え、冬でも掛け布団がないほど質素だった。
- 広州刺史として赴任の途中、「飲めば無限の欲が生じる」と伝わる貪泉の水をあえて汲んで飲み、「試みに伯夷・叔斉に飲ませても、その心は変わらないだろう」との詩を詠んだ。任地でも清廉を貫き、部下が魚の骨を抜いて肉だけを供したのを見抜いて処罰するなど、徹底した姿勢を示した。元興初年、その徳行を称える詔が下された。
- 盧循の乱では長子曠之が戦死し、広州は陥落、隠之は捕らえられたが劉裕の計らいで帰還した。帰還時の荷物はほとんどなく、狭い茅屋に妻子を住まわせるほどの清貧であった。中領軍としても俸禄の大半を親族に分け与え続けた。義熙九年に没した。娘の嫁入りに際しての倹約ぶり、妻が持ち帰った香を湖に投げ捨てた逸話も伝わる。子の呉延之も清廉な家風を継いだ。
史論
- 史臣曰く、魯芝らは旗を掲げ竹符を分かち、政令を布いて恩威を示し、去った後も遺愛を残し、名君に認められて名声を残した。胡威(伯武)の勤勉な自己抑制、曹攄(顏遠)の冤罪を晴らした裁き、鄧攸が糧を担いで任地に赴いた清廉、呉隠之が貪泉の水を飲んで節を貫いた姿は、晋代の良吏の最たるものである。
-
しかし鄧攸が我が子を棄てて甥を存えた判断は、力及ばぬなら情を割いて忍ぶべきだったのではないか。まして子を木に縛りつけるようなことまでして逃げる子を止めたのは、慈父仁人のなすべきことであろうか。ついに子孫を絶やしたのも、故なきことではない。天道に知らざるところなしとは、まさにこのことである。魯芝(世英)が曹氏に節を尽くし、自ら門を破って馳せ参じた際、司馬懿は雷霆の威をもってなお忠烈を賞した。これもまた、自らの内にある正しさを示せば、人を罵る者もその意を悟るということであろう。
-
賛にいう、ああ良き宰、前賢の美をよく継いだ。威(胡威)は狡猾な者を制するがごとく、静かなること魚を煮るがごとし。ただ呉の水(貪泉)を嘗め、貪泉を挹むのみ。人々の気風はすでに正され、風俗はここに移り変わった。