晉書卷八十三 列傳第五十三 王雅

王雅、字は茂達、東海郯の人、魏の衛將軍王肅の曾孫。若くして秀才に挙げられ、廷尉・侍中・左衛將軍・丹陽尹を歴任し、孝武帝に深く信任された。人物眼に優れ王恭・殷仲堪の登用に反対したが容れられず、のちその予言が的中した(?–400年)。

年表(1件)
  • 隆安四年400年左僕射のまま卒去、享年六十七。光祿大夫・儀同三司を追贈される

才幹と孝武帝の寵遇

  • 王雅、字は茂達、東海郯の人、魏の衞將軍王肅の曾孫。祖の王隆は後將軍。父の王景は大鴻臚。王雅は若くして名を知られ、州の主簿に招かれ秀才に挙げられ郎中に除せられ、永興令に出て幹練の政で称された。尚書左右丞に累進し、廷尉・侍中・左衞將軍・丹陽尹を歴任し太子左衞率を領した。王雅は下の者への応対を好み敬慎にして公に奉じ、孝武帝は深く礼遇し、外職にあっても頻繁に召見され、朝廷の大事にも多く参謀した。帝が酒宴を開くたび王雅が到着するまで杯を挙げなかったほど重んじられた。しかし任用は才を超えており当時の人は佞幸の目で見た。帝が後宮に清暑殿を建て北上閣を開き華林園に出て美人張氏と遊んだ際、王雅だけがこれに与った。

人物眼

  • 会稽王司馬道子が太子太傅を領し王雅を太子少傅とした。当時王珣の子が婚礼を挙げ賓客の車騎が多く集まっていたが、王雅の少傅拝命を聞いて過半数がそちらへ向かった。当時の風俗は頽廃し恥を知らない有様で、少傅の任は本来王珣が世望を集めていたため王珣自身もこれを期待していたが、勅命で王雅が用いられると人々は王雅の下へ向かった。拝命の際に雨に遭い傘を持って入ろうとしたところ王珣がこれを許さなかったため、王雅は雨に濡れて拝命した。王雅は貴顕になると威権が大いに震え、門下に車騎が常に数百集まり、よく応接し礼を尽くした。
  • 帝は司馬道子に社稷を治める器量がないと考え、崩御後に皇室が傾くことを憂い、世望のある者を籓屏に選ぼうと王恭・殷仲堪らを抜擢しようとし、まず王雅に諮った。王雅は王恭らに当世の才がなく大任に堪えないと考え、「王恭は風神簡貴で志気は方厳、外戚の重責を担い親賢の寄託を受ける立場にあるが、その性質は峻隘(狭量)で包容力がなく自負が強く節を守る志に欠ける。殷仲堪も細行には慎重で文義で知られるが弘量はなく幹略も長くない。もし連率(州の統率者)の重責を委ね形勝の地に拠らせれば、今は四海無事で職を守るに十分でも、道が常に隆盛でなければ必ず乱の階梯となるだろう」と述べた。帝は王恭らを当時の秀望と考えており、王雅が彼らの優越を妬んでいると考え従わなかった。二人はともに登用されたが、その後果たして敗れ、識者はその人を見る目を称賛した。
  • 領軍・尚書・散騎常侍に遷り、大いに昇進させようとし副相の重責を担わせようとした矢先に帝が崩じ、急なことで顧命を受けられなかった。王雅は平素優遇されていたが一旦権を失い、朝廷が乱れ内外が離反する中、慎重に沈黙するのみで是正を図らなかった。孝武帝の世にあっても顔を犯して廷争することはできず、謀議は唯々諾々とするのみであった。まもなく左僕射に遷った。隆安四年(400年)に卒した、時に年六十七。光祿大夫・儀同三司を追贈された。
  • 長子の王准之は散騎侍郎。次男の王協之は黄門。次男の王少卿は侍中。いずれも士人の節操があり世に名を立てたという。

史論

  • 史臣曰く、中興の世にあって玄風(清談の風)が広まり、王綱は無為に沈み国運は清虚に揺らぎ、骨鯁蹇諤(剛直に諫言する)の気風は衰えていた。しかし顧和(君孝)は情理を守って顕命に背き、袁瑰(山甫)は誠を献じて頽廃した風俗を振るい立たせ、袁喬(彥叔)の兵謀、江逌(道載)の正諫は、その声が広く耳に達し十分に称えるに値する。江灌は権臣に屈さず、江績は賊将に危言を発した、司馬道子の殊物の礼を車胤は懼れることなく阻み、殷仲堪の常道に背く挙を殷顗は正色をもって折った、これらを古の烈士に求めても何をもって勝るであろうか。しかし袁山松は軒冕(栄達)の時にあって哀挽の曲を悦び、袁耽は喪服の日に博徒との交わりを楽しんだ、天心がすでに失われたのならその成就がありえようか、旋(たちま)ちにして短命に終わり非業の死を遂げたのも当然であろう。
  • 贊に曰く、顧生(顧和)は事物を軌道に乗せ、しばしば誠讜(誠実で正しい言)を申べた。袁子(袁瑰)は儒を崇め、頽廃した世を救った。江逌・江績は剛毅を貫き、車胤・殷顗は忠に壮んであった。かの正直な人々を顧みれば、誰もこれに勝る者はない。