晉書卷八十三 列傳第五十三 殷顗

正義を貫いた最期

  • 殷顗、字は伯通、陳郡の人。祖の殷融は太常卿。父の殷康は呉興太守。殷顗は性格が通率で才気があり、若くして從弟の殷仲堪とともに知られた。太元年間、中書郎から南蠻校尉に抜擢された。任にあって清廉潔白で政績は際立った。殷仲堪が王恭の書を受け取り兵を挙げて内伐しようとした際、殷顗にこれを告げ同行を求めたが、殷顗は不満を抱き「人臣の義は守る所を慎むことにある、朝廷の是非は宰輔の務めであり、籓屏(地方の守り)が図るべきことではない。晉陽の事(王恭の挙兵)にはあずかるべきでない」と言った。殷仲堪がなお強く迫ると、殷顗は怒り「私は進んで同ずることも退いて異なることもできない」と言った。殷仲堪はこれを恨みに思った。
  • なお密かに殷仲堪を諫め、その言葉は極めて切実であった。殷仲堪は貴顕となるにつれ心根も変わり、志望は限りなく、殷顗の言葉を非とした。殷顗は江績もまた正直さのゆえに殷仲堪に疎まれるのを見て、殷仲堪が異心を抱く者を追放し親しい者を取り立てようとしていることを知り、病と称して出仕をやめ帰らなかった。殷仲堪はその病を聞き自ら見舞い「兄の病はまことに憂うべきものだ」と言うと、殷顗は「私の病はせいぜい身の死で終わる、しかしあなたの病は一族の滅亡に至るだろう、どうかよく考えてほしい、私のことは気にかけないでほしい」と答えた。殷仲堪はこれに従わず、ついに楊佺期・桓玄とともに下った。殷顗はこれにより憂いのうちに卒した。隆安年間、詔で「故南蠻校尉殷顗は忠績いまだ融ぜぬまま突然に世を去った、冠軍將軍を追贈すべきだ」とされた。弟の殷仲文・殷叔獻には別伝がある。