晉書卷八十三 列傳第五十三 車胤

蛍雪の功と学識

  • 車胤、字は武子、南平の人。曾祖の車浚は呉の会稽太守。父の車育は郡主簿。太守王胡之は人を見抜く力があり、幼い車胤を見て父に「この子はいずれ卿の家門を大いに興すだろう、専ら学問をさせるべきだ」と告げた。車胤は勤勉で倦むことなく博学多通であった。家が貧しく常には油を得られず、夏の夜は練り絹の袋に数十匹の蛍を入れてその光で書を読み、夜を日に継いだ。成長するにつれ風姿は美しく機知に敏速で、大いに郷里の評判を得た。桓温が荊州にあった頃、從事に招かれ、その弁識の深さから主簿に招かれ次第に別駕・征西長史に遷り、朝廷にその名を顕した。当時車胤と呉隱之だけが寒門でありながら博学で世に名を知られていた。また社交にも巧みで、盛んな宴席に車胤がいないと、みな「車公がいないと楽しくない」と言った。謝安は遊びの集まりの日、必ず筵を開いて車胤を待った。

孝経の講義と諫言

  • 甯康初、車胤は中書侍郎・関内侯を拝命した。孝武帝がかつて『孝経』を講じた際、僕射謝安が侍座し、尚書陸納が侍講し、侍中卞眈が執読し、黄門侍郎謝石・吏部郎袁宏が経を執り、車胤は丹陽尹王混とともに擿句(句読を摘む役)を務め、当時の議論はこれを栄誉とした。侍中に累進した。太元年間、太学生百人を増置した際、車胤は國子博士を領した。その後、郊廟明堂の議論があった際、車胤は「明堂の制は詳らかにし難く、しかも楽は和を主とし礼は敬を主とするため質と文は異なり音器も異なる。茅茨(質素な屋根)と広廈(豪華な建物)でその度が一つでない以上、なぜその形式に固執して本義に順い時に応じることを弘めないのか。九服(天下)が咸く安寧となり四野に塵がなくなってから、明堂辟雍は光を放って修めることができよう」と述べ、当時その議に従った。また驃騎長史・太常に遷り、爵は臨湘侯に進み、疾病により去職した。まもなく護軍將軍となった。当時王國寶が会稽王司馬道子に諂い八座(尚書省高官)に道子を丞相とし殊礼を加えるよう諷したが、車胤は「これはまさに成王が周公を尊んだ理屈だ。今の主上は既に成人しており成王の立場ではない、相王(道子)がどうして周公になり得ようか。望みも実質もいずれも中途半端で、こんなことは決して行うべきではない、必ず主上の意に大きく背く」と述べ、病と称してこの件に署名しなかった。上疏が奏せられると帝は大いに怒ったが、車胤を深く評価した。

晩年

  • 隆安初、呉興太守となり秩は中二千石であったが、疾病を理由に赴任を辞退した。輔國將軍・丹陽尹を加えられた。まもなく吏部尚書に遷った。司馬元顯に過ちがあった際、車胤は江績とともに密かに司馬道子に告げ上奏しようとしたが事が漏れ、元顯は逼って車胤に自裁を命じた。まもなく車胤は卒し、朝廷はこれを悼んだ。