晉書卷八十三 列傳第五十三 袁瑰

南渡から江左での功績

  • 袁瑰、字は山甫、陳郡陽夏の人、魏の郎中令袁渙の曾孫。祖・父はいずれも早世した。袁瑰は弟の袁猷とともに母を奉じて乱を避け、江淮の間の県を求めて呂令を拝命し、江都に転じ南渡した。元帝は丹陽令とした。中興建国に際し奉朝請を拝命し治書御史に遷った。東海王司馬越の屍が石勒に焼かれた後、妃裴氏が招魂葬を求めた際、朝廷はこれを疑った。袁瑰は博士傅純とともに「招魂葬は神を埋めることに等しく従うべきではない」と議し、帝はこれを是とし、裴氏には招魂葬を許したが、以後これを禁ずる詔を下した。まもなく廬江太守に除せられた。大將軍王敦は諮議參軍に招いた。まもなく臨川太守となる。王敦平定後、鎮南將軍卞敦の軍司となった。まもなく自ら官を辞して都へ戻り會稽で遊んだ。蘇峻の乱では王舒とともに義軍を起こし、功により長合鄉侯に封ぜられ、召されて散騎常侍を補せられ大司農に徙り、まもなく國子祭酒に除せられた。まもなく散騎常侍を加えられた。

国学再興の上疏

  • 喪乱の後、礼教が衰えていたため袁瑰は上疏した。「先王の教えは典訓を崇めて遠い代を広め、礼楽を明らかにして後生に流し、万物の性を導き善を為す道を暢べるものである。宗周が興ると文史は輝き、端委(礼服)は南蠻に垂れ頌声は四海に溢れた。延州(呉季札)が魯を訪ね『雅』を聞いて嘆じ、韓起が魯を訪れ『易』を見て賛美したのはこの故である。何となれば人の道を立てることこそ第一だからだ。孔子は洙泗で恂々と教え、孟軻がこれを継いで誨誘に倦むことなく、仁義の声は今なお存し礼讓の節も時に見られる」と説いた。
  • 「かつて皇運は衰え喪乱がしばしば起こり、儒林の教えは次第に頽れ庠序の礼にも欠けが生じ、国学は索然として書物も開かれず、志ある者もそれを叶える術がなかった。昔魏武帝は自ら甲冑を身に付け武功に努めながらも鞍を廃して書を読み戈を投げて詩を吟じた、まして今陛下は聖明で朝に臨み百官は敬い謹んで職務にあたり朝野に憂いなく江外も静かである、それなのになぜ泱泱たる古の遺風が漠然と聞こえず、洋洋たる美が聖世に埋もれているのか。古人は『詩・書は義の府、礼楽は徳の則』と言った、まさに経籍に心を留め学義を闡明にし、諷誦の音を京師に満たし、道を味わう賢者がこれを詠じるようにすべきだ、なんと盛んなことではないか。もし宅地を与え学徒を備え博士僚属をわずかでも設けていただければ、それが臣の願いである」。
  • この上疏は成帝に容れられ、国学の興隆は袁瑰から始まったという。老齢を理由に上疏して致仕を願い、まもなく卒した。光祿大夫を追贈され、恭の諡を賜った。子の袁喬が跡を継いだ。

袁喬――蜀征伐の献策と戦功

  • 袁喬、字は彥叔。初め佐著作郎を拝命した。輔國將軍桓温が司馬に招き、司徒左西屬に除せられたが赴任せず尚書郎を拝命した。桓温が京口に鎮すると再び司馬に招かれ廣陵相を領した。かつて袁喬は褚裒と親しく、康獻皇后(褚裒の娘)が臨朝すると、袁喬は褚裒に書を送り「皇太后が正阼に即かれ皇朝に臨御されました、将軍にとって国の外姓の太上皇に等しい存在です。皇子や近属には揖讓の礼がありますが、まして臣として名を策せられている身が父君のように交わりを続けるのは、天性の尊さから見ても慎重を要します。故友の好みはこれを機に辞したいと思います。染絲の変(墨子の悲しみ)、岐路の感(楊朱の嘆き)を思えば、まして将軍と共に長らく過ごしてきた身であればなおさらです。かつての交わりは礼数とともに変わるもの、箕踞(無礼な座り方)の嘆きも時勢に応じて改まるものです、いくら濠梁の遊のような親しさを望んでも儀制を脱ぎ捨てることはできません。物事は止まることなく移り変わります、将軍には情を無事に留め理の勝る道を任とし、賢達を身近に置いて善を納れることを大切にしていただきたい。筆を執って惆悵し、意を尽くせません」と伝えた。議者はこれを礼に適うものとした。

袁喬――蜀平定

  • 安西諮議參軍・長沙相に遷ったが赴任せず、まもなく督沔中諸戍江夏隨義陽三郡軍事・建武將軍・江夏相となった。桓温が蜀征伐を謀った際、衆はみな不可としたが、袁喬は桓温に「経略の大事はもとより常人の及ぶところでなく、智者は胸中で了知したのち計画を全うする。今天下の憂いは二つの敵(胡と蜀)のみだ。蜀は険固だが力は胡より弱い、除くならまず易きものから始めるべきだ。今流れを遡り万里を経て天険を越えれば彼らに備えがあれば必ずしも克てないが、蜀人は自ら険阻の一方に頼み、防戦の備えを怠っている。精鋭一万を率い軽装で速やかに進めば、彼らが知る頃には既に険要に入っており、李勢の君臣は一戦を強いられるのみでこれを擒えられよう。議者は大軍が西に向かえば胡が隙を窺うと恐れるが、これは似て非なる懸念だ。なぜなら胡は万里の遠征と聞けば内に重い備えがあると考え動かないはずだ、たとえ江渚を越えてきても諸軍で境を守るに十分であり憂いはない。蜀の地は富み天府と称され、昔諸葛武侯(諸葛亮)はこれで中国に対抗しようとした。今こそこれを取れば国の大利となる」と説いた。桓温はこれに従い、袁喬に江夏相のまま二千人を率いて先鋒とさせた。
  • 軍が彭模に至り賊がすでに近い中、諸将は二道に分かれて進み賊勢を分散させようとしたが、袁喬は「今万里を深く進み死地に置かれ、士は退く心なく、まさに人自ら戦う状況だ。今二軍に分ければ軍力が一つにならず、万一片方が敗れれば大事は去る。全軍で進み釜甑を捨て三日分の糧を携えれば必ず勝てる」と述べ、桓温はこれに従い一気に進軍した。成都まで十里の地点で賊と大戦し、前鋒が失利し袁喬の軍も一時退いたが、矢が桓温の馬の頭に及び左右が動揺する中、袁喬は自ら旗を振って進み、声を励まし大いに賊を破り、成都まで長駆した。李勢が降ったのち、その将鄧定・隗文がそれぞれ一万余の兵を率いて反した際、桓温自ら鄧定を撃ち、袁喬は隗文を撃って破った。龍驤將軍に進み湘西伯に封ぜられた。まもなく卒した、年三十六。桓温は深くこれを悼み惜しんだ。益州刺史を追贈され、簡の諡を賜った。
  • 袁喬は博学で文才があり、『論語』および『詩』に注し、その他の文筆もみな世に行われた。
  • 子の袁方平が跡を継ぎ、これもまた儀礼を守り自立し、大司馬掾に招かれ義興・琅邪太守を歴任した。卒すると子の袁山松が跡を継いだ。

袁山松――行路難と最期

  • 袁山松は若くして才名があり、博学で文章に優れ『後漢書』百篇を著した。情趣は秀でて遠く、音楽を善くした。古い歌に『行路難』の曲があり、歌詞が粗略であったのを袁山松はこれを好み、辞句を美しく整え節奏を巧みにして、酔うたびに縦に歌った。聞く者はみな涙を流したという。当初、羊曇が楽を歌うのに巧みで桓伊が輓歌に長け、そこに袁山松の『行路難』が加わり、当時「三絶」と称された。当時張湛が斎の前に松柏を植えることを好んだのに対し、袁山松は外出するたび左右に輓歌を歌わせたため、人は「張湛は屋下に屍を並べ、袁山松は道上で葬儀の真似をしている」と言った。
  • 袁山松は要職を歴任し呉郡太守となった。孫恩の乱に際し滬瀆を守り、城が陥落した際に害された。

袁猷とその子孫

  • 袁瑰の弟の袁猷、字は申甫、若くして袁瑰と並ぶ名声があった。袁瑰に代わり呂令となり、また相継いで江都となり、これにより兄弟ともに江を渡った。袁瑰は丹陽、袁猷は武康となり、兄弟がともに名邑の宰となったことは議者に称賛された。侍中・衞尉卿を歴任した。袁猷の孫の袁宏は『文苑傳』に見える。
  • 袁瑰の從祖の袁準、字は孝尼、儒学で知られ『喪服經』に注した。給事中に至った。袁準の子の袁沖、字は景玄、光祿勳。袁沖の子は袁耽。

袁耽――桓温との交わり

  • 袁耽、字は彥道、若くして才気があり倜儻(自由奔放)で束縛されず、士類に称された。桓温が若い頃博打に興じて資産をすべて失い、なお借金を抱えていた際、自ら立て直す方策が見出せず袁耽に助けを求めようとしたが、袁耽は服喪中であった。試みにこれを告げると、袁耽は何ら難色を示さず、服を替え布帽を被って桓温とともに債主のもとで博打に興じた。袁耽は元々博打の名手として知られていたが、債主はこれを知らず「あなたには到底袁彥道の真似はできまい」と言った。ついに一勝負十万を賭け、たちまち百万にまで上がった。袁耽は馬を投げ出すように叫び布帽を脱いで地に投げ、「これで袁彥道と分かったか」と言った。その通脱な性格はこの通りであった。
  • 蘇峻の乱では王導が參軍に招き、王導に従い石頭にあった。当初、路永・匡術・寧らはみな蘇峻の腹心であったが、祖約が敗走したと聞き事が成就しないことを恐れ、しきりに蘇峻に大臣の誅殺を説いた。蘇峻がこれを容れないと、路永らは敗北を恐れ密かに王導と結んだ。王導は袁耽を遣わして密かに路永を説き、朝廷への帰順に導いた。蘇峻の乱平定後、秭歸男に封ぜられ、建威將軍・曆陽太守を拝命した。咸康初、石季龍の遊騎十余騎が曆陽に至った際、袁耽はその報告で騎兵の少なさを言わなかった。当時胡の侵攻は強盛で朝野は危懼しており、王導は宰輔の重責をもって自ら討伐しようとしたが、賊騎が実際には多くなく既に退散していたため出兵を止めた。朝廷は袁耽が軽率に虚偽を報告したとして黜けた。まもなく再び王導の從事中郎となり、大任を任されようとした矢先に卒した、時に年二十五。子は袁質。

袁質・袁湛・袁豹

  • 袁質、字は道和。袁渙から袁質まで五世、みな道義と質朴をもって業を継いだが、父の袁耽だけは豪雄で知られた。袁質もまた孝行で称された。琅邪內史・東陽太守を歴任した。子は袁湛。
  • 袁湛、字は士深。若くして節操があり沖粹(謙虚純朴)をもって自立したが、文華に乏しく世俗に重んじられなかった。謝混が僕射であった頃、范泰が袁湛と謝混に詩を贈り「亦有後出雋、離群頗騫翥(後に出た俊才もいるが、群れを離れてはるかに高く飛ぶ)」と詠んだが、袁湛はこれを恨んで答えなかった。中書令から僕射・左光祿大夫・晉甯男に至り官で卒した。弟は袁豹。
  • 袁豹、字は士蔚、博学で文辞に優れ経国の才があり、劉裕に重用された。のち太尉長史・丹陽尹となり卒した。