晉書卷八十二 列傳第五十二 徐廣

徐廣(字は野民、?–逝去年不詳、享年74)。東莞姑幕の人、侍中徐邈の弟。秘書省で校勘に従事し、勅命により『晉紀』全四十六巻を完成させた。桓玄の簒奪や劉裕への譲位の際に晉室への哀惜を示した忠節でも知られる。

年表(6件)
  • 孝武帝の代秘書郎として秘書省の校勘を掌る
  • 義熙初車服儀注の撰進を命じられ、勅命により国史(『晉紀』)の撰集にあたる
  • 義熙十二年416年『晉紀』全四十六巻を完成させ上呈する。解任を願うが許されず秘書監に遷る
  • 桓玄簒奪の際帝が宮を出るのを見て悲しみに動かされる
  • 劉裕への譲位の際ひとり哀しみに感じ入り涙を流し続け、謝晦に「晉室の遺老」と答える
  • 晩年老衰を理由に帰郷を願い出て、年74で家で没する

秘書の職と晉紀の完成

  • 徐廣、字は野民、東莞姑幕の人、侍中徐邈の弟。一族は代々学を好んだが、徐廣は特に精純で諸子百家の術数にすべて通じていた。謝玄が兗州となった際從事に招かれ、譙王司馬恬が鎮北となった際は參軍に補せられた。孝武帝の代、秘書郎に除せられ秘書省の校勘を掌り、官職を増置され員外散騎侍郎に転じ校書を兼ねた。尚書令王珣は深く敬い祠部郎に推挙した。會稽世子司馬元顯が録尚書となり百僚に自らへ敬意を表させ内外を服従させようとした際、徐廣に議を作らせたが、徐廣はこれを常に恥じていた。司馬元顯は徐廣を中軍參軍に招き領軍長史に遷らせた。桓玄が輔政すると大將軍文學祭酒とし、義熙初、車服儀注の撰進を命じられ鎮軍諮議に除せられ記室を領し樂成侯に封ぜられ、員外散騎常侍に転じ著作を領した。尚書は「左史は言を述べ右官は事を記す、『乘』『志』(晉・鄭の史書)は晉鄭に顕れ、『春秋』は魯史に著された。聖代に『中興記』を造った者があって以来、道風帝典は史策に輝いていたが、太和以降、世は三朝を経て、玄風聖跡は忽ちにして古きこととなった。臣らが検討したところ、著作郎徐廣に命じて国史を撰成させるべきだ」と奏した。これにより勅命で徐廣が撰集にあたった。驍騎將軍に遷り徐州大中正を領し、正員常侍・大司家(大司農か)に転じ引き続き著作を領した。義熙十二年(416年)、『晉紀』全四十六巻を完成させ表とともに上呈した。史任の解任を願い出たが許されなかった。秘書監に遷った。

晩年の忠節

  • かつて桓玄が帝位を簒った際、帝が宮を出た時、徐廣は列に陪して悲しみに左右を動かした。劉裕が帝位を受け恭帝が譲位した際は、徐廣ひとりが哀しみに感じ入り涙を流し続けた。謝晦がこれを見て「徐公は少々やりすぎではないか」と言うと、徐廣は涙を収め「あなたは宋朝の佐命の臣、私は晉室の遺老、憂喜の事は当然異なる」と答え、なお歔欷(すすり泣き)を続けた。老衰を理由に故郷への帰還を願い出た。読書を好み老いてなお倦むことがなかった。年七十四で家で没した。徐廣の『答禮問』は世に行われた。

史論

  • 史臣曰く、古の王者はみな史臣を建て法を明らかにし訓えを立てた、これに勝る仕事はない。始めを原ね終わりを要め、情を紀し性を括るその言葉が微にして顕、その義が皎にして明であってこそ、後世に手本となる書となる。左丘明が没すると班固・司馬遷が相継いで興り、西京で筆を振るい東觀で直言を馳せた。それ以降、優劣を競う者の中で先典を継ぐに足るのは陳壽であろう、江漢の英霊は確かに彼にあった。虞溥は将帥の子でありながら典墳に篤志し、司馬彪(紹統)は宗室の裔でありながら書物の研究に励んだ。いずれも文を綜緝して不朽を垂れたが、これは必ずしも家業を継いだからだけではあるまい。王隱(處叔)は懸命に著述に励んだが混淆蕪雑でとても見るに堪えない。虞預(叔甯)は見聞乏しく王隱の家から盗み見たようなもので、一家をなしたとはいえ多く尚ぶには足りない。干寶(令升)・孫盛(安國)は良史の才を持ちながらその著書が正典足り得なかったのは惜しい。悠々たる晉室は、この文が失われようとしている。鄧粲・謝沈は前史を祖述し、屋根の下、床の上に籠っただけで、奇詞異義はほとんど称えられるものがない。習鑿齒・徐廣はともに筆削を云々し善を彰し悪を癉らし懲勧としたが、忠を貫き正を履むのは貞士の心、義に背き栄を図るのは君子のなさぬところである。彦威(習鑿齒)の跡は寇壤に淪み偽国に逡巡し、野民(徐廣)は革命の運に遭いながら旧朝への未練に涙した。行いが言葉に違わなかったのは徐廣の方であろう。
  • 贊に曰く、陳壽は文才を含み、岩々として孤高であった。司馬彪・虞溥は節を励まし、辞を摛(の)べ理を綜べた。王隱は雅才に恧じ、虞預は惇史に慚じた。干寶・孫盛は筆を撫し、前の良史に比すべきであった。鄧粲・謝沈は鉛を懐き、異聞を紀すに至らなかった。習鑿齒もまた思を研き、徐廣は絢美ならざれど、みな簡冊に被り、共に遙かな祀りに伝えられる。