出仕と広州刺史
- 鄧岳、字は伯山、陳郡の人。もとの名は岳だが康帝の諱に触れることから嶽と改め、のちついに名を岱と改めた。若くして将帥の才略があり、王敦の參軍となった。從事中郎に転じ、西陽太守となった。王含が乱を構えた際、鄧岳は兵を率いて王含に従い京都に向かった。王含が敗れると鄧岳は周撫とともに蠻王向蠶の下へ逃れたが、のちに赦免を受け周撫とともに出た。しばらくして司徒王導は鄧岳を從事中郎に任じ、のち再び西陽太守とした。
- 蘇峻の乱では平南將軍温嶠が鄧岳を督護王愆期・鄱陽太守紀睦らとともに舟軍を率いて赴かせた。蘇峻平定後、郡に戻った。郭默が劉胤を殺した際、大司馬陶侃は鄧岳に西陽の軍を率いてこれを討たせた。郭默平定後、督交廣二州軍事・建武將軍・領平越中郎將・廣州刺史・假節に遷り、前後の功を記録され宜城縣伯に封ぜられた。咸康三年(337年)、鄧岳は軍を遣わして夜郎を伐ちこれを破り、督寧州を加えられ征虜將軍に進み、平南將軍に遷った。没後、子の鄧遐が跡を継いだ。
鄧遐――勇力と桓温
- 鄧遐、字は應遠。勇力は人に絶し気概は当代を蓋い、時人は樊噲になぞらえた。桓温が參軍とし、しばしば桓温の征伐に従い冠軍將軍・数郡太守を歴任し名将と称された。襄陽城北の沔水中に蛟がいて常に人を害していたが、鄧遐は剣を抜いて水に入り、蛟が足に絡みつくと剣で数段に切り裂いて出た。枋頭の役で桓温は恥辱と憤りを抱いた上に鄧遐の勇果を忌み、鄧遐を免官し、まもなく卒した。甯康年間、廬陵太守を追贈された。
- 鄧岳の弟鄧逸、字は茂山、こちらも武幹があった。鄧岳の死後、鄧逸を監交廣州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節とした。