出自と若年期
- 王羲之、字は逸少、司徒王導の従子。祖正、尚書郎。父曠、淮南太守。元帝の渡江に際し、曠が最初にその議を唱えた。羲之は幼い頃口下手で人々に注目されなかった。13歳のとき周顗を訪ねると、顗はこれを見て非凡さを見抜いた。当時牛の心臓の炙り肉が珍重されており座客がまだ誰も食べていない中、顗が真っ先に切り分けて羲之に与えた、これにより羲之は初めて知られるようになった。
- 成長すると弁舌豊かで骨鯁(剛直)と称され、特に隷書に優れ古今随一とされ、論者はその筆勢を「浮雲のように翻り、驚き飛ぶ龍のように矯める」と評した。従伯の王敦・王導に深く重んじられた。当時陳留の阮裕が重い名声を持ち敦の主簿だったが、敦はかつて羲之に「お前は我が家の佳い子弟だ、阮主簿に劣らないだろう」と述べた。裕もまた羲之と王承・王悦を並べて「王氏三少」と評した。
- 太尉郗鑒が門生を遣って王導に娘婿を求め、導は東廂で子弟をすべて見せた。門生が帰って鑒に「王氏の子弟は皆立派ですが、使者が来たと聞くとそれぞれ気取っていました。ただ一人だけ東の寝台で腹をはだけて食事をし、聞こえないかのようでした」と報告すると、鑒は「まさにそれが良い婿だ」と言い、調べてみると羲之であった。そこで娘を嫁がせた。
出仕をめぐる往復書簡
- 秘書郎から起家し、征西将軍庾亮が参軍に招き累進して長史となった。亮は臨終に際し上疏して羲之が清貴で鑑識力があると称えた。寧遠将軍・江州刺史に遷った。羲之は若くして美誉があり朝廷の公卿は皆その才器を愛し、たびたび侍中・吏部尚書に召したがいずれも応じなかった。護軍将軍を再び授けられたがまた辞退した。
- 揚州刺史殷浩は日頃から羲之を重んじ出仕を勧め、羲之の出処が政治の隆替を測る指標だとして応じるよう書を送った。羲之は返書で、自分にはもともと廟堂の志がなく王丞相(導)が引き立てようとした際も固辞したこと、子女の婚嫁が済んだ後は隠者尚長のような志を抱いていること、しかしもし関隴・巴蜀への使命を命じられれば辞さないことを述べた。
会稽内史としての諫言
- 羲之は護軍を拝命した後さらに宣城郡を望んだが許されず、右軍将軍・会稽内史となった。当時殷浩と桓温が不和で、羲之は国家の安寧が内外の和にあると考え浩に書を送って戒めたが浩は従わなかった。浩が北伐しようとした際、羲之は必ず敗れると考え書を送って切実に止めたが、浩は出兵しやはり姚襄に敗れた。
- 浩が再挙を図ろうとすると、羲之は再び書を送り、安西(浩)の敗北は公私ともに痛惜すべきものであること、江左の状況は長年不安を招いていたところにさらに敗戦が重なったこと、過去は追えないが将来を弘めるべきであること、寛和と道義を本とし武力に頼ることを慎み従来の長所を守って大業を固めるべきであると説いた。
- また、内外の要職にある者に深謀遠慮がなく国の根本を疲弊させながら各自の思うままに動いて何の功績も残せず、忠言嘉謀が用いられなかった結果天下が土崩の勢いにあること、任にある者は責任を逃れられないこと、今こそ虚心に賢者を求めるべきであること、軍が外で破れ資が内で尽きた以上淮水を保つことは現実的でなく長江を保ち各都督は旧鎮に戻すべきであること、国政を任じられた者は自ら過ちを認め貶降して民に謝し朝廷の賢者とともに煩苛を除き賦役を省き民と共に新たに始めるべきであると説いた。
- さらに、殷浩が布衣より起こり天下の重任を担ったが敗戦に至ったこと、朝廷の賢者すべてがその責めを分かち合うべきであること、今こそ徳を修め欠を補い賢者を広く招くべきだが、それでも成功するとは限らないこと、まして分外を求めるべきでないこと、進言は必ずしも用いられないが情の在るところを尽くさずにいられないこと、もし親征を強行するなら理解しがたいと述べた。
- また、州の命令で運送量が千石増やされ徴発が重なりすべて軍期を理由にされ対応に窮していること、近年民を搾取し刑徒が路に溢れる様は秦の悪政さながらで三族皆殺しの刑だけがまだ無いに過ぎないこと、陳勝・呉広の乱のような憂いが遠からず来るだろうと警告した。
会稽王への諫言
- 会稽王(司馬昱)への箋で殷浩の北伐が不適切であることと時事を論じ、古人は君主が堯舜に及ばないことを恥じたが智力が及ばないなら軽重を計るべきであること、今好機に見えても内を顧みれば憂いの方が大きいこと、『春秋左氏伝』に「聖人でなければ外が平穏なら必ず内に憂いがある」とあるが今は外も内も憂いが深いこと、古の大業を成した者が衆議によらず国を傾けて一時の功を得た例もあるがそれは独自の明察が衆を超える場合に限られ、今それが可能か疑問であると述べた。
- また、廟算は彼我を審らかに量り万全を期してから動くべきであること、今功はまだ見えず民は殲滅寸前であること、千里の兵糧輸送は古来難事であり、まして西は許洛、北は黄河まで転運が続いていること、秦の弊政もこれには及ばないのに十室の憂いがすでに至っていること、運搬に終わりが見えず徴発は日々重くなり、狭い呉越の地で天下の十分の九を統べようとすれば滅びを待つのみであると述べた。
- さらに、過去は正せないが将来はまだ間に合うこと、殿下(会稽王)には三思し殷浩・荀羨を合肥・広陵に戻し許昌・譙郡・梁・彭城の諸軍も淮水を保つ位置に戻して不敗の基を築いてから改めて謀るべきであること、そうしなければ社稷の憂いは日を数えて待つだけであること、安危の機は掌を返すほど容易く、独断の明を発揮しひと朝で定めるべきであると説いた。
- 身分は低くとも言葉は重いこと、古人も市井や軍陣にあって時勢を論じ国を謀ることがあったこと、まして大臣の末席にある身が黙っていられないこと、存亡の機は行動にかかっており、疑い後手に回るべきでないと結んだ。
- また、殿下は徳が天下に冠たり公室として朝廷を輔ける立場にあり正道を貫き隆盛を致すべきなのに衆望に応えられていないことを、殊遇を受けた者は嘆いていること、伍子胥の憂いが昔だけの話でなくなることを恐れること、どうか虚遠の志を暫く措き倒懸の急を救ってほしい、そうすれば亡を存に転じ禍を福に転じ宗廟の慶び・四海の頼りとなろうと結んだ。
謝安への政策提言
- 東土に飢饉が起こると羲之は倉を開いて振貸した。朝廷の賦役が重く呉会の民が苦しんでいたため、羲之はたびたび上疏して争い、多くが聞き入れられた。尚書僕射謝安への書では、先に陳べた論がいつも聞き入れられ民が息をつけたこと、今の大きな課題は漕運であること、朝廷は期限を示し担当者に委ね年末に功過を評価するに留めるべきであること、成績の悪い長吏は檻車で天台に送り、3県連続で挙がらなければ太守(二千石)を必ず免ずるか辺境の難地に左降すべきだと述べた。
- また、台司や都水御史の文書が雨のように届き錯綜し実態が把握できないこと、事務担当者が10日も落ち着けず官吏民が奔走し費用が万を数える中で、江左の平時なら揚州は良い刺史一人で統べられるはずなのに法が統一されず牽制が多いため治まらない、簡素にして従いやすくすればそれで足りると論じた。
- 倉督が官米を盗み動もすれば万を数える損失を出していること、一人を処罰すればそれで止まるはずが実際には諸県を検査しても皆同じ状況で余姚だけで近10万斛にも及び、重い課税で奸吏を養う結果国用が窮乏していることを嘆いた。
- 戦乱以来、徴役・運搬に従事した者の死亡・逃亡が多く補充が形式通りに行われるため各地が疲弊していること、命じられた徴発に応じた者が道中で逃亡し官吏も一緒に逃げてしまうこと、家族・隣保に連座で捕縛を命じてもかえって彼らまで逃亡し百姓の流亡・戸口減少の原因になっていること、諸工・医師なども同様に消耗し補充の当てがなく上からの命令だけが続く中、10年・15年と弾劾を受けても実効ある対策がないことを憂え、今後は死罪から軽減できる者や5年刑に相当する者を、死一等を減じた者は長く兵役に、5年刑の者は雑工・医師に充て、それぞれの家族ごと都邑に移すべきであると提案し、都邑が実を得ることは政の根本であり逃亡も断てる、家族を移さなければ逃亡の弊は元に戻るだけだと論じた。
蘭亭の会
- 羲之は服食養生を好み、京師に留まることを楽しまず、初めて浙江を渡ったときから終焉の地とする志を抱いた。会稽には佳い山水があり名士が多く住み、謝安も出仕前はここに住んでいた。孫綽・李充・許詢・支遁らも皆文義で世に冠たる者たちで、東土に住居を築き羲之と好みを同じくした。
- かつて同志と会稽山陰の蘭亭で宴集した際、羲之は自ら序文を作りその志を述べた。永和9年(353年)3月初め、会稽山陰の蘭亭に集い禊の行事を行ったこと、崇山峻嶺・茂林修竹に囲まれ清流の傍らで曲水の宴を催し盃を巡らせて詩を詠み合ったこと、その日は空が澄み風が和やかで宇宙の広大さと万物の盛んな様を眺め目と耳の楽しみを尽くしたこと、人が世に処するあり方は様々でも、出会いに喜びを得た瞬間は満ち足りていながら、時が過ぎればその喜びも過去の跡となり、生死の大事に思いを致さずにいられないこと、昔の人が感慨を抱いた由縁を見るたびに今の自分と符合し胸を打たれること、生死を同一視し長寿と夭折を等しく見る考えは虚妄であり、後世の人がこの文を読むときも今の自分たちが昔を見るのと同じように感じるだろうと結んだ、という趣旨の序文であった。
- ある人がこれを潘岳の『金谷詩序』になぞらえ、羲之を石崇に比したところ、羲之はこれを聞いて大いに喜んだという。
逸話
- 性格は鵞鳥を愛した。会稽に独り暮らす老婆が鳴き声の美しい鵞鳥を飼っており、買おうとしたが手に入らなかったため、親友を連れて見に行った。老婆は羲之が来ると聞いて鵞鳥を煮て待っていたため、羲之は終日嘆き惜しんだ。また山陰のある道士が良い鵞鳥を飼っており、羲之が見に行くと大いに気に入り強く売ってほしいと求めた。道士は「『道徳経』を書写してくだされば群れごと差し上げましょう」と言い、羲之は喜んで書き終えると鵞鳥を籠に入れて帰り、大いに楽しんだという。その率直さはこの通りであった。
- かつて門生の家を訪ねた際、滑らかで美しい棐(木)の几を見かけて書を記した、真書と草書が半々であった。後にその父が誤ってこれを削り取ってしまい、門生は何日も悔やんだ。また蕺山であるとき老婆が六角の竹扇を売っていたのを見かけ、羲之がその扇に各5字を書いた。老婆は初め不機嫌そうだったが、羲之が「ただ王右軍の書だと言って百銭を求めなさい」と言うと、老婆はその通りにし人々が争って買い求めた。後日老婆がまた扇を持って来たが、羲之は笑って応じなかった。その書がこれほど世に重んじられていたのである。
- 常に「私の書は鍾繇に比べれば互角、張芝の草書に比べればなお雁行(やや劣る)程度だ」と自称し、ある人への書で「張芝は池に臨んで書を学び池の水が真っ黒になるほどだった、人がこれほど耽ればあながち彼に劣らないだろう」と述べた。羲之の書は若い頃は庾翼・郗愔に及ばなかったが晩年に至って妙境に達した。かつて章草で庾亮に返書したところ、翼が深く感嘆し、羲之への書で「私はかつて張伯英(張芝)の章草10紙を持っていたが渡江の混乱で失ってしまい、その妙跡が永遠に絶えたことを常に嘆いていた、しかし今卿の兄への返書を見ると神業のように輝かしく、たちまち昔の光景が蘇った」と述べた。
王述との確執
- 当時驃騎将軍王述は若くして名声があり羲之と名声を並べていたが、羲之は述を大いに軽んじ、これにより両者の関係は不和であった。述が先に会稽にあり母の喪で郡境に居た際、羲之が述に代わって着任したが一度弔問しただけで再び訪ねなかった。述は角笛の音を聞くたびに羲之が自分を訪ねてきたと思い、そのたびに掃除して待ったが、何年もそのようなことが続いても羲之はついに顧みず、述は深く恨んだ。
- 述が揚州刺史に任じられ召に応じようとした際、郡界を巡回しながら羲之には立ち寄らず、出発に臨んで一度別れの挨拶をしただけで去った。以前、羲之は常に賓客に「懐祖(述)はまさに尚書止まりだろう、老いて僕射になれれば良い方だ、会稽を求めるなど及びもつかないことだ」と語っていた。述が顕職を授かると、羲之はその下に立つことを恥じ、使者を朝廷に遣り会稽を分けて越州とすることを求めたが、使者が言葉を誤り時の賢者に大いに笑われた。羲之は内心恥じて嘆じ、諸子に「私は懐祖に劣らないのに地位の差がこれほど開いたのは、お前たちが(王)坦之に及ばないからだろう」と語った。
- 述はその後会稽郡を検察し刑政を弁明させ、担当者は対応に疲弊した。羲之はこれを深く恥じ、病を称して郡を去り、父母の墓前で誓いを立てた。永和11年3月9日、羲之は父母の霊に、自分は不運にも早くに父を失い教えを受けられなかったが母と兄に育てられ人に頼って国の寵栄を得たこと、進んでは忠孝の節を尽くせず退いては賢者に譲る義に背いたこと、老子・周任の戒めを畏れ命の終わりが遠くないことを恐れていること、これは自身だけの問題ではないこと、止足の分をここに定めること、今後この心を違え貪って苟も進むことがあれば、それは親を敬わぬ心であり子として許されないこと、天地に受け入れられず名教にも許されないこと、この誓いの真実は白日のようであると告げた。
致仕後の日々
- 羲之は去官の後、東土の人士と山水の遊びを尽くし釣りや弋猟を楽しみとした。また道士許邁と服食を修め、薬石を求めて千里を厭わず東方の諸郡を巡り名山を極め滄海に船を浮かべ、「自分はきっとこの楽しみのうちに死ぬだろう」と嘆じた。謝安がかつて羲之に「中年以来、哀楽に傷つきやすくなり、親友との別れのたびに数日は気が滅入る」と言うと、羲之は「年老いて桑楡(晩年)にあれば自然とそうなるものだ、近頃は音楽で気を紛らせているが、子供たちに気づかれ楽しみが損なわれることを恐れている」と答えた。朝廷は羲之の誓いが固いことを知り、二度と召さなかった。
- 当時劉惔が丹陽尹だった頃、許詢が惔のもとに泊まった際、寝台や帷幕が新しく美しく飲食も豊かだったため「これほどの安逸なら東山(隠棲)よりずっと良い」と言うと、惔は「卿がもし吉凶が人の行いによると分かっているなら、私はどうしてこれを保てようか」と答えた。羲之がその場におり「巣父・許由が(聖王の)舜・契に出会っていたら、そのような言葉は出なかっただろう」と言うと、二人とも恥じ入った。
謝萬への戒め
- 羲之は悠然自適の身になった頃、吏部郎謝万への書で、古の世を辞した者は髪を振り乱し狂を装ったり身を汚したりしたが、自分は坐したまま安逸を得てかねての志を遂げられた、これは天の賜物であり天に背けば不祥だと述べ、東遊から帰って桑や果樹を植え今花咲く様子を子や孫と楽しんでいること、子孫には敦厚謙譲を教えたいと望んでいること、謝安とともに山海を遊び田地を見て閑暇を養い、親しい者と酒を酌み交わし田里の話を楽しみにしていること、陸賈・班嗣・楊王孫のような処世を理想とすると綴った。
- 万が後に豫州都督となると、羲之は再び書を送って戒め、「君の卓越して物事を軽んじる気風で世俗の官職に身を屈めるのは本当に難しいことだろう、しかし通識というものは事に応じて出処進退するからこそ遠大なのだ、どうか君には常に下位の士人と同じ立場で接してほしい、それでこそ善を尽くせる。食事に二品を求めず居所に二重の敷物を用いない、それだけのことがなぜ古人に美談とされたのか、事の成否は小さな徳を積み重ねて大きな成果に至ることにある、君はこれを心に留めてほしい」と述べたが、万はこれを用いず果たして敗れた。
- 享年59で卒去、金紫光禄大夫を追贈された。子らは父のかねての遺志に従いこれを固辞し受けなかった。
羲之子凝之
- 羲之には7子があり、知られる者は5人。玄之は早卒。次男の凝之もまた草書・隷書に優れ、江州刺史・左将軍・会稽内史を歴任。王氏は代々張氏の五斗米道を奉じており、凝之はことに篤かった。孫恩が会稽を攻めた際、僚佐が防備を進言したが凝之は従わず、静室に入って祈祷し、外に出て諸将佐に「私はすでに大道に祈願し、鬼兵の助けを得ることが許された、賊は自ら破れるだろう」と語った。備えをしないまま孫恩に殺害された。
羲之子徽之
- 徽之、字は子猷。性格は卓抜で不羈、大司馬桓温の参軍となったが髪も帯も乱したまま府の事務に取り組まなかった。車騎桓沖の騎兵参軍にもなった際、沖が「卿はどの部署か」と問うと「馬曹のようです」と答えた。「馬は何頭管理しているのか」と問われると「馬のことを知らないのに、どうして数を知りましょうか」と答えた。「近頃馬はどれほど死んだか」と問われると「生のことも知らないのに、どうして死のことを知りましょうか」と答えた。沖に従って行軍中、暴雨に遭うと、徽之は馬を下りて沖の車に押し入り「公が一台の車を独り占めしてよいはずがない」と言った。沖がかつて「卿は府に長くいる、そろそろ職務を整理すべきだ」と言うと、徽之は答えず遠くを見つめたまま手版で頬を支えて「西山は朝から爽やかな気に満ちている」とだけ言った。
- 呉中のある士大夫の家に良い竹があると聞き、見に行きたいと輿に乗って竹の下に座り長く歌い吟じた。主人が掃除して座を勧めても徽之は顧みず、出ようとすると主人が門を閉めた、徽之はこれを喜び感嘆して立ち去った。かつて空き家に仮住まいした際、すぐに竹を植えさせた。理由を問われると、徽之はただ嘯詠し竹を指して「どうして一日たりともこの君(竹)なしでいられようか」と言った。
- 山陰に住んでいたある夜、雪が晴れ月が清らかに照り四方が白く輝く中、独り酒を酌みながら左思の『招隠詩』を詠み、ふと戴逵を思い出した。逵は当時剡にいたため、夜のうちに小舟に乗って訪ね、一晩かけて着いたが、門の前まで来ると入らずに引き返した。理由を問われると「もとより興に乗じて行ったのであり、興が尽きれば帰る、何も安道(戴逵)に会う必要はない」と答えた。性格は放埓で声色を好み、ある夜弟の献之と『高士伝賛』を読んだ際、献之が井丹の高潔さを称賛すると、徽之は「司馬長卿(司馬相如)が世を侮った生き方には及ばない」と言った、その傲慢さはこの通りであった。時人は皆その才を敬いながらその行いを穢れたものとした。
- 後に黄門侍郎となったが官を棄てて東に帰り、献之とともに病篤くなった。当時ある占い師が「人の命が尽きるとき、代わって喜んで死んでくれる生者がいれば、死者は生き返る」と言った。徽之は「私は才も位も弟に劣る、余生を彼に代えたい」と言うと、占い師は「代わって死ぬというのは自分の寿命に余りがあり、それを亡くなる人に足すことができる場合の話だ、今君と弟の寿命はともに尽きている、どうして代わりになろうか」と答えた。まもなく献之が卒すると、徽之は喪に駆けつけても泣かず、直ちに霊床に上がり座って献之の琴を取って弾いたが、長らく調子が合わず「ああ子敬よ、人も琴もともに滅んでしまった」と嘆じ、そのまま気を失った。以前から背中に病があり、これが破裂し、1月余りで徽之も卒去した。子楨之。
徽之子楨之
- 楨之、字は公幹、侍中・大司馬長史を歴任。桓玄が太尉になった際、朝臣がすべて集う中で楨之に「私は君の亡き叔父(献之)と比べてどうか」と問うと、座にいた者は皆息を呑んだ。楨之は「亡叔は一時代の標であり、公は千載の英傑です」と答え、一座は皆喜んだ。
羲之子操之
羲之子献之
- 献之、字は子敬。若くして盛名があり高く卓抜で不羈な性格で、たとえ一日中閑居していても容儀を怠らず、風流は当代随一であった。幼い頃、門生が樗蒱(賭博)をするのを見て「南風が振るわない」と評すると、門生が「この坊やも管を通して豹を見るように、一部だけを見て言っているのだろう」と返すと、献之は怒って「遠くは荀奉倩(荀粲)に恥じ、近くは劉真長(劉惔)に恥じるような言葉だ」と言い放ち衣を払って去った。
- かつて兄の徽之・操之とともに謝安を訪ねた際、二人の兄は俗事を多く語ったが献之は挨拶程度で終えた。三人が退出した後、客が安に王氏兄弟の優劣を尋ねると、安は「末の子が優れている」と答え、理由を問われると「善人は口数が少ない、彼が言葉少なであったことからそう分かる」と述べた。
- かつて徽之と一室にいた際、突然火事が起こると、徽之は慌てて逃げ靴を履く暇もなかったが、献之は表情を変えず静かに左右の者を呼んで助け出させた。ある夜書斎で寝ていると盗人が入り物を全て盗んでいったが、献之は静かに「盗人よ、その青い毛氈は我が家の旧物だ、それだけは置いていってくれ」と言うと、盗人らは驚いて逃げ去った。
献之の書と婚姻
- 草書・隷書に優れ絵にも巧みだった。7、8歳で書を学んでいた頃、羲之が密かに背後から筆を奪おうとしても奪えず、「この子は後にきっと大きな名声を得るだろう」と嘆じた。かつて壁に一丈四方の大字を書いた際、羲之はこれを大いに称賛し見物人は数百人に及んだ。桓温がかつて扇に字を書かせた際、筆を誤って落としたところ、それを利用して黒白まだらの雌牛の絵に仕立て、大変見事な出来映えとなった。
- 州主簿・秘書郎から起家し丞に転じ、選ばれて新安公主を娶った。かつて呉郡を通った際、顧辟彊の名園があると聞き、面識がないまま平肩輿に乗って直接入り込んだ。折しも辟彊は賓客を招いていたが、献之は見て回った後、傍若無人な態度だった。辟彊は怒って「主人を無視するのは礼に反する、身分の高さで士を侮るのは道に反する、この二つを失っては卑しい田舎者に過ぎない」と叱責し、門から追い出した。献之は傲然としてこれを意に介さなかった。
献之――謝安との関係と昇進
- 謝安は献之を深く敬愛し長史に招いた。安が衛将軍に進むと再び長史とした。太元中、太極殿が新築された際、安は献之に扁額を書かせ万代の宝としたかったが言い出しにくく、試しに「魏の時代、陵雲殿の扁額が書かれないまま誤って釘付けにされ下ろせなくなり、韋仲将を高い梯子に登らせて書かせた、書き終える頃には鬢髪が真っ白になり、息も絶え絶えだったという、彼は子弟に戻ってこの方法を絶対に使うなと語ったそうだ」と語った。献之はその意図を察し、正色して「仲将は魏の大臣、そのようなことがあるはずがない、もしそうだとすれば、魏の徳が長続きしなかった理由が分かるというものだ」と答え、安はそれ以上求めなかった。安がさらに「君の書は父上と比べてどうか」と問うと、献之は「もとより異なるものです」と答え、安が「世間の評判はそうではないが」と言うと、献之は「他人にどうして分かりましょうか」と答えた。まもなく建威将軍・呉興太守に除せられ、中書令に召還された。
献之――謝安への追贈上疏
- 安が薨じた際、贈る礼について異論があり、献之と徐邈だけが安の忠勲を明らかにしようとした。献之は上疏し、故太傅謝安は若くして玄風を興し名声が広まったこと、弱冠で世を離れ隠棲したが応運して出仕すると王道を尽くし威霊を宣べ強猾を消し去ったこと、功勲を成した後は高潔に譲位したこと、先帝に仕えては布衣時代からの寵眷が厚く陛下の即位後もまだ幼少の陛下を心を尽くし補佐したこと、その出処進退を考えれば大晋の俊輔であり歴代の忠臣に劣らないこと、どうか陛下には宗臣に心を留め詳しく考察してほしいと訴えた。孝武帝はこれにより安に特別な礼を加えた。
献之の最期
- まもなく献之は病にかかり、家人が道家の作法に従い上章して過ちを問うと、献之は「他に思い当たることはないが、ただ郗家との離婚だけは心残りだ」と答えた。献之の前妻は郗曇の娘であった。まもなく在官のまま卒去。安僖皇后(献之の娘)が立てられると、皇后の父として侍中・特進・光禄大夫・太宰を追贈され、諡は憲。子がなく兄の子静之が継ぎ義興太守に至った。
- 当時の議論では、羲之の草書・隷書は江左・中原を通じて並ぶ者がなく、献之は骨力が父に遠く及ばないが独特の艶やかな趣があるとされた。桓玄は父子の書をともに深く愛し、それぞれ一帙にまとめて手元に置いて愛玩した。羲之が生前ともに交遊した人物に許邁がいた。