出自と占術の伝授
- 郭璞は字を景純といい、河東聞喜の人。父の郭瑗は尚書都令史を務め、尚書杜預の増減案の多くを是正して公正さで知られ、建平太守で終わった。
- 郭璞は経術を好み博学で高才だったが弁舌が拙く、詞賦は中興第一と称された。古文奇字を好み陰陽算暦に精通した。河東に寓居していた郭公という人物が卜筮に精通しており、郭璞はこれに師事した。郭公は『青囊中書』九巻を授け、これにより五行・天文・卜筮の術に洞達し、京房・管輅にも劣らぬほどとなった。門人の趙載がひそかに『青嚢書』を盗んだが、読む前に火事で焼失した。
河東での予言と江東への避難
- 恵帝・懐帝の頃、河東が先に乱れた。郭璞は占って「民は異民族に呑まれ、故郷は蛮地となるだろう」と嘆き、数十家の姻戚・友人と密かに結び江南への避難を図った。
- 将軍趙固のもとを訪ねた際、固の愛馬が死んで賓客を寄せ付けなかったが、郭璞は「馬を生き返らせられる」と告げ、健夫二三十人に竿を持たせ丘林の廟で怪物を捕らえさせると、その物が死馬の鼻を嗅がせるうちに馬が生き返った。趙固はこれを奇として厚く報いた。
- 廬江へ向かう途中、太守胡孟康が丞相召命を受けながら江淮の平穏に安んじて南渡の意志を持たなかったのを、郭璞は「敗れる」と占ったが信じられなかった。郭璞は主人の愛する婢を得るため小豆をまいて怪異を演出し、婢を東南に売らせて自ら安く買い取り、符を井戸に投じて赤衣の妖異を消したと見せかけ、婢を連れて去った。その後数十日で廬江は陥落した。
占卜の霊験の数々
- 江を渡った後、宣城太守殷祐に参軍として招かれた。灰色で象のような脚を持つ巨大な獣が城下に現れた際、郭璞は卦を立てて「驢鼠」という怪物であると判じ、実際にその通りであった。廟の神託により、この獣が近隣の山の神の使いであることも判明した。
- 石頭督護に転じた殷祐に従い、延陵に鼯鼠が出た際には妖人の出現とその自滅を予言し、無錫県で茱萸が連理のように交わって生じた年には呉興太守袁琇が盗賊に殺害される事件が起きた。
- 王導は郭璞を深く重んじ自軍に参画させた。震雷の厄があると占い、柏の木を身の丈に切って寝所に置くよう勧めると、数日後に果たして雷が落ち柏の木が粉砕された。
- 元帝が鄴に鎮していた頃、王導が郭璞に筮わせると「北東の『武』を名に持つ地に鐸が出、西南の『陽』を名に持つ地に井戸が沸くだろう」との卦が出た。その後、実際に晋陵武進県で銅鐸五枚が出土し、暦陽県の井戸が沸騰した。帝が晋王となった際にも「会稽に鐘が出て、成功を告げるだろう」と占い、太興初年に果たして会稽剡県の井戸から古文十八字を刻んだ鐘が発見された。帝はこれを深く重んじた。
著作と上疏
- 『江賦』を著してその文辞は世に高く評価され、後に『南郊賦』を作ると帝が嘉して著作佐郎とした。
- 陰陽の乱れと刑獄の頻発を憂い、上疏して歳首の卦の兆しを述べ、刑獄が多く冤罪が生じていること、太白が月を犯した凶兆を挙げ、帝に赦を発して刑を緩め、恵みを施すよう勧めた。『尚書』の五事供禦の術や京房『易伝』の消復の教えを引き、恩詔を発して民を安んじるべきと説いた。また、法令が頻繁に変わり官職が定まらないことが人心を惑わせている現状も批判した。疏は帝に納れられた。
- その後、日に黒気が現れると再び上疏し、先の予言通りに凶兆が現れたことを述べ、天の譴責を敬い恩恵を施すべきと重ねて説いた。赦を数多く行うのは良くないという聖旨には同意しつつ、今回の赦は弊害を救うために必要であると論じた。
『客傲』と晩年の予言
- 郭璞は卜筮を好んだため縉紳に笑われることが多く、自らの才が高いのに位が低いことを嘆いて『客傲』を著した。その内容は、才能ある者が世に認められない不遇を嘆く客の言葉に対し、郭生(郭璞自身を指す)が、乱世に人材が争って登用される中で自らは敢えて浮世を超越する道を選んだのだと答え、荘子・老萊子・厳平・梅福・阮籍らの隠者の生き方を引いて自らの心境を述べるものであった。
- 永昌元年、皇孫が生まれた際、上疏して法令が厳しすぎることの弊害を説き、水清ければ魚棲まずの理を挙げ、皇孫誕生を機に大赦を行うべきと勧めた。疏は納れられ、大赦改元となった。
- 暨陽の任穀という者が怪異な出産をし、宦者になったと自称して宮中に留め置かれた事件について、郭璞は上疏し、このような妖異な人物を宮中に近づけるべきでないと諫めた。まもなく元帝は崩御し、任穀は逃走した。
- 郭璞は母の喪に服す間、暨陽の水辺近くに墓地を選んだ。人々が水に近すぎると言うと「まもなく陸地になる」と答え、その後果たして砂が堆積し墓の周囲数十里が桑田となった。喪が明けぬうちに王敦が記室参軍に起用した。潁川の陳述の死を深く哀しみ「嗣祖よ、これが福とならぬとも限らぬ」と叫んだが、まもなく王敦が反乱を起こした。
- 明帝が熒惑が房宿を守る凶兆を憂い使者を遣わした際、郭璞は改元と大赦を勧める疏を上げた。ある人の葬地について「竜の耳に葬れば天子を招く」と評した逸話も伝わる。桓彝と親しく交わっていたが、廁で異様な儀式(裸身・被髪で刀を銜え供物を捧げる)を行う姿を桓彝に見られ、「禍が及ぶのはお前も同じだ」と告げた。郭璞は結局王敦の禍に斃れ、桓彝も蘇峻の乱で命を落とした。
王敦誅殺の予言と最期
- 王敦の謀反に際し、温嶠・庾亮が挙兵の吉凶を占わせると、郭璞は自身の可否については明言せず、嶠・亮自身の吉凶については「大吉」と答えた。二人はこれを挙兵成就の兆しと解し、明帝に敦討伐を勧めた。
- かねて郭璞は「私を殺すのは山宗(崇の姓を持つ者)だろう」と語っていたが、まさに崇という姓の者が敦に郭璞を讒言した。敦が挙兵しようとして再び占わせると「成功しない」と出た。敦は郭璞が嶠・亮を勧めたことを疑い、自らの寿命を問うと「武昌に留まれば計り知れないが、事を起こせば禍は久しくない」と答えた。敦が「お前の寿命は」と問うと「今日の日中に尽きる」と答え、敦は激怒して郭璞を斬らせた。
- 刑場に向かう途中、郭璞は「双柏樹の下だろう」「そこには大鵲の巣があるはずだ」と予言し、いずれも的中した。享年49。王敦の乱平定後、弘農太守を追贈された。
庾氏一族への予言
- かつて庾翼が幼い頃、郭璞に庾家と自身の運命を占わせると「建元の末に丘山が傾き、長順の初めに子が凋落する」との卦が出た。康帝が即位して建元と改元しようとした際、庾冰はこの予言を思い出し撫心して嘆いた。帝が崩じ何充が永和と改元すると、庾翼は「長順とは永和のことか、私は免れられまいか」と嘆き、その年に翼は没した。
- 庾冰が子孫の運命を占わせると「諸子は皆貴盛となるが、白龍のような凶兆が現れ、墓碑に金が生じれば庾氏の大凶である」との卦が出た。後に冰の子庾蘊が広州刺史となった際、白い犬の怪異が現れて消え失せ、墓碑にも金が生じ、まもなく庾氏一族は桓温に滅ぼされ、予言はことごとく的中した。
著作
- 郭璞は生涯の占験六十余事をまとめて『洞林』とし、京房・費直らの要点を抄録して『新林』十篇・『卜韻』一篇を著した。『爾雅』に注釈を施し『音義』『図譜』を別に編んだ。また『三蒼』『方言』『穆天子伝』『山海経』『楚辞』『子虚賦』『上林賦』などに数十万言の注を施し、いずれも世に伝わった。詩賦誄頌も数万言に及んだ。子の郭驁は臨賀太守に至った。