出自と若年期
- 孫惠は字を德施といい、呉国富陽の人。呉の豫章太守孫賁の曾孫にあたる。父・祖父ともに呉に仕えた。孫惠は口下手だったが学問を好み才識があり、州の招聘には応じず蕭・沛の間に寓居していた。
斉王冏への諫言と出奔
- 永寧初年、斉王司馬冏の挙兵(趙王司馬倫討伐)に馳せ参じ、功により晋興県侯に封ぜられ、大司馬戸曹掾から東曹属に転じた。
- 冏が驕慢・僭侈に陥り天下の失望を招くと、孫惠は「五難・四不可」を説いて藩国へ帰るよう強く諫めたが、冏は聞き入れなかった。孫惠は罪を恐れ病と称して辞去し、まもなく冏は敗死した。
- 成都王司馬穎が孫惠を大将軍参軍・奮威将軍・白沙督に推挙した。穎が長沙王司馬乂を討とうとし陸機を前鋒都督に任じた際、同郷の孫惠は陸機に禍が及ぶことを憂い、都督の任を王粋に譲るよう勧めたが、結局陸機兄弟は誅殺され、孫惠は深く傷み恨んだ。
- この頃、孫惠は穎の牙門将梁俊を擅断で殺害しており、罪を恐れて姓名を変えて出奔した。
東海王越への上書
- 東海王司馬越が下邳で挙兵すると、孫惠は南嶽の隠士「秦秘之」と偽称して越に上書し、挙兵を助けるよう説いた。書は晋室の危難と自らの田舎からの参陣の志を述べ、越に朝廷を輔弼して逆賊を討つよう促す長大な勧説であった。
- 越はこの書を読み、道に榜を立てて秘之を探させた。孫惠が名乗り出ると、記室参軍として文書・謀議を任せた。以後、散騎郎・太子中庶子を歴任し、さらに司空従事中郎に転じた。
- 越が周穆らを誅殺した夜、参軍王廙に上表文を書かせたが、王廙は恐れおののき何枚も書き損じて完成できなかった。折しも孫惠は不在で、越は「孫中郎がいれば、表はとうに出来上がっていたものを」と嘆いた。
- 越が太傅に転じると孫惠は軍諮祭酒となり、しばしば得失を諮問された。檄文を作るたびに、駅馬で催促されても即座に文采のある文を仕上げた。秘書監に除せられたが受けず、彭城内史・広陵相を経て広武将軍・安豊内史に遷り、元帝を迎えた功により臨湘県公に封ぜられた。
晩年と最期
- 元帝が甘卓を遣わして周馥を寿陽に討たせた際、孫惠は兵を率いて甘卓に呼応し、馥は敗走した。廬江の何鋭が安豊太守となり孫惠を郡境に留めていたが、鋭は他事にかこつけて孫惠の部下を捕らえ追及した。孫惠は南朝(江南の朝廷)から正式に任じられた身ではなかったため讒言を恐れて大いに恐懼し、鋭を攻め殺して蛮地に逃げ込んだ。まもなく病没、享年47。遺骸は郷里に戻され、朝廷はその本心を理解して弔賻を加えた。