晉書卷七十 列傳第四十 鍾雅
出自と若年期
- 鍾雅、字は彦冑、潁川長社の人。父の鍾曅は公府掾で早世。若くして孤児となり学を好み志を持ち、四行に挙げられ汝陽令、佐著作郎となった。母の喪に服した後復職。東海王司馬越の参軍に招かれ尚書郎に遷った。
元帝以降の任官
- 乱を避けて渡江し、元帝の丞相記室参軍、臨淮内史・振威将軍に遷った。散騎侍郎、尚書右丞に転じ、太廟の祭祀に関する称号の誤り(京兆府君への「曾孫」呼称、伯祖景皇帝の廟位)を上奏し正された。北軍中候に転じ、大将軍王敦の従事中郎、宣城内史となった。銭鳳の乱では広武将軍として青弋に屯し、鳳に呼応した周玘の攻撃を涇県で防ぎ討伐した。乱平定後、尚書左丞に召された。
御史中丞としての剛直さ
- 明帝崩御後、御史中丞に遷った。国喪の期間中、尚書梅陶が私的に女妓を招いた件を、放勛(堯)の喪の先例(八音遏密)を引いて弾劾した(本文参照)。穆后臨朝時には特に赦された。法を厳正に守り百官に恐れられた。
- 北中郎将劉遐の死後の部曲の乱では郭黙討伐の監軍として仮節を得た。乱平定後、驍騎将軍を拝された。
蘇峻の乱での死
- 蘇峻の乱で前鋒監軍・仮節として精兵千人を率いたが兵少なく戦えず退いた。侍中に拝され、王師敗北後は劉超と共に天子を護衛した。逃げるべきとの忠告に「国が乱れて匡せず、君が危うくて救えないのに逃げるなら、董狐の直筆に恥じる」と拒んだ。庾亮が去る際「後事を託す」と言うと「棟折れ榱崩れる責めは誰にあるのか」と返し、庾亮が「今更言っても仕方ない、必ず回復させよ」と応じると「荀林父(敗戦後に自死を望んだが許され再起した晋の将)に恥じぬようにしたい」と答えた。
- 蘇峻が天子を石頭に遷す際、鍾雅・劉超は涙しながら徒歩で従った。翌年、共に賊に殺害された。乱平定後、光禄勲を追贈。家が貧しいことから布帛百匹が下賜された。子の鍾誕は中軍参軍に至ったが早世した。
史論
- 史臣曰く、應詹は行いを修め文史の才を活かし、朝廷では良謀をしばしば献じ、地方では恵政を行き渡らせた。甘卓は暴を伐ち乱を鎮め功績を挙げ、鎮を守っては威略を発揮したが、逆賊が順を犯すや勤王の志を抱きながらも、人がその謀を妨げ天がその見通しを奪い、疑い留まって断を下せず自ら誅を招いた。卞壼は帯を締めて朝に立ち、匡正を己の任とし、裳を褰げて主君を守り忠義をもって名を成した。臣は君に死し子は父に死す、忠と孝がこの一門に集まったのは、まさに社稷の臣、忠貞の士と言うにふさわしい。劉超は上を勤め肅み奉り、鍾雅は正直に官に当たった。巨猾(蘇峻)が天を犯し幼君が危迫する中、艱難を共にし、匪石(動かぬ心)を心とし寒松に操を比し、貞節を貫いて命を落としながらもその名は共に高く上った。高赫(趙簡子の家臣、危難にあっても礼を守った)や荀息(晋の忠臣、殉死した)の忠義さえも、この二人には及ばないだろう。
贊に曰く、卓(甘卓)は南方の地に臨み、詹(應詹)は西州に赴任した。政刑はよく挙がり、威と恵を兼ね修めた。應(應詹)は運の短さを嘆き、甘(甘卓)は疑い留まって斃れた。望之(卞壼)は義に殉じ、死を厭わなかった。子(劉超)たり臣(鍾雅)たり、名節はここに寄せられた。鍾(鍾雅)・劉(劉超)は仕官し、忠貞を貫いた。股肱の力を尽くし、死をもってこれに継いだ。