出自と若年期
- 劉超、字は世瑜、琅邪臨沂の人、漢の城陽景王劉章の後裔。劉章の七世孫が臨沂県慈郷侯に封じられ子孫はここに住んだ。父の劉和は琅邪国上軍将軍。若くして志を持ち県の小吏から琅邪国記室掾に累進。忠謹清慎で元帝に抜擢され側近として渡江に従い、安東府舎人として文書を司った。文字が帝の筆跡に似ていたため人との文書交換を避けるほど慎重で、休暇中も客を通さず徐々に信頼を深めた。功により原郷亭侯(食邑七百戸)に叙され行参軍に転じた。
中書舎人としての勤勉
- 中興建国後、中書舎人、騎都尉・奉朝請を拝された。台閣創設期の実務を掌り、慎重さで重んじられた。清貧を貫き帝の賜与も固辞した。句容令に出た際、賦税徴収で百姓に自己申告させる方式を導入し民に信頼され、通常より多くの徴収に成功した。中書通事郎に召され、父の喪の後、王敦の乱に際し復職し安東上将軍を兼ねた。王師敗北後も自らの兵は動かさず皇帝を護衛し続け、帝に感謝され喪明けまで帰郷を許された。銭鳳の乱に際しては義士を集め明帝に従軍、功により零陵伯に封じられたが、家貧しく妻子を養えぬ状態を帝が褒め、物資を賜っても辞退した。義興太守を経て中書侍郎に召された。
明帝・成帝への忠誠
- 明帝崩御後、穆后(皇太后)臨朝の際、射声校尉に遷り、義興の義勇兵を「君子営」として統率した。咸和初、母の喪に服し朔望に墓参する孝行が知られた。
- 蘇峻の乱に際し左衛将軍として妻子を宮中に入れ自身は成帝を護衛。太后崩御後の山陵の警護も担当した。石頭への遷都の際、雨の中賊が与えた馬に乗らず徒歩で従い悲哀慷慨したため、蘇峻は不快に思ったが害することはできず、許方らを配し監視を強めた。飢饉の中でも蘇峻からの物資を一切受けず、臣節を貫いた。八歳の成帝に孝経・論語を教え続けた。
- 王導出奔後、匡術・管旆と密謀し成帝を連れて脱出しようとしたが計画が漏れ、蘇峻の命で任讓に捕らえられ殺害された。成帝は「我が侍中・右衛を返せ」と泣き叫んだが救えなかった。蘇峻平定後、陶侃と旧知の任讓を特赦しようとする動きに対し帝は「私の侍中・右衛を殺した者は許せない」と拒み、任讓は誅殺された。改葬の際も帝は近くの高地に葬らせ墓を望めるようにした。衛尉を追贈、諡は忠。
- 天性謙虚で三代の帝に仕え常に機密に関わりながらも寵を恃んで驕らなかったため、士人に安んじ敬われた。子の劉訥が嗣ぎ石慶(漢代の謹厚な名臣)の風があり中書侍郎・下邳内史を歴任、その子の劉享も清慎で散騎郎となった。