晉書卷六十九 列傳第三十九 刁協

出自と若年期

  • 刁協、字は玄亮、渤海饒安の人。祖父の刁恭は魏の斉郡太守、父の刁攸は武帝時代の御史中丞。経籍に通じ博聞強記、濮陽王文学から起家、太常博士・本郡大中正を歴任。成都王司馬穎の平北司馬、趙王司馬倫の相国参軍、長沙王司馬乂の驃騎司馬を経て東嬴公司馬騰の長史・潁川太守となった。永嘉初、河南尹となるも赴任せず渡江。元帝の鎮東軍諮祭酒・長史を経て湣帝即位後は御史中丞に召されたが赴かなかった。
  • 元帝が丞相の頃、左長史として仕え、中興建国後は尚書左僕射に拝された。制度に習熟していたため多くの制度が刁協の意見で定められ、当時大いに称賛された。太興初、尚書令に遷り数年間在職、金紫光禄大夫を加えられた。

王敦の乱と最期

  • 剛悍な性格で物議を醸すことが多く、上を崇め下を抑えたため王氏に憎まれた。酒に酔って公卿を侮辱することもあったが、忠実に王事に尽くし帝に深く信任された。奴隷を兵に転用し将吏の客を運送に徴用する政策を建言し、民衆の怨嗟を買った。
  • 王敦の反乱で刁協を罪する上疏がなされ、王師敗北後、元帝は劉隗と共に刁協の手を取り涙して逃亡を勧めたが「死を賭して守る」と拒み、帝の強い勧めでやむなく馬を与えられ逃走。年老いて騎乗に堪えられず、募った従者にも見捨てられ、江乗で殺害されその首が王敦に送られた。王敦は刁氏に恩義を感じ厚く葬った。帝はその死を悼み、密かに首を送った者を捕らえて誅した。

死後の名誉回復

  • 王敦平定後、周顗・戴若思は顕彰されたが刁協は出奔の身であったため対象外とされた。咸康中、子の刁彝が上疏して訴えたが、既に明帝の代に評価が定まったとして議論が分かれた。丹陽尹殷融は「王敦の逆は誅に値するが、刁協が国の計算で行動したことも認めるべき」と擁護し、孔甯・儀行父の先例を引いた。
  • 左光禄大夫蔡謨は庾冰への書簡で、刁協の忠節を明確にし、周僕射(周顗)・戴征西(戴若思)・周筵・郭璞らと同様の顕彰を求める詳細な議論を展開した(本文参照)。庾冰はこれに納得し、成帝の詔で刁協の本官を復し祭祀を行うこととなった。

子 彝

  • 刁彝、字は大倫。若くして家難に遭う。王敦の死後、仇の党を斬りその首を父の墓に祭り、自ら廷尉に出頭したが特に赦された。これにより名を知られ、尚書吏部郎・吳国内史を経て北中郎将・徐兗二州刺史・仮節となり広陵に鎮し、官にて卒した。

彝子 逵

  • 刁逵、字は伯道。弟の刁暢は仲遠、次弟の刁弘は叔仁とそれぞれ字し、皆顕職を歴任。隆安中、刁逵は広州刺史・平越中郎将・仮節、刁暢は始興相、刁弘は冀州刺史となった。兄弟子姪は品行に拘らず貨殖に励み、田万頃・奴婢数千人を有した。
  • 桓玄の簒奪時、刁逵は西中郎将・豫州刺史として暦陽に鎮し、刁暢は右衛将軍、刁弘は撫軍桓修の司馬となった。劉裕が挙兵し桓修を斬ると、刁暢・刁弘は劉裕討伐を謀ったが劉毅に討たれ、刁暢は誅殺、刁弘は逃亡し行方不明となった。刁逵は劉裕の参軍諸葛長民を捕らえ桓玄に送ろうとしたが桓玄の敗死で長民が解放され、刁逵は暦陽を放棄して逃走中に捕らえられ石頭で斬られた。子姪は皆殺され、末弟の刁騁のみ赦されたが後に謀反により誅殺され、刁氏は滅んだ。刁氏は富裕で山沢を独占し京口の害悪であったため、劉裕がその財産を分与し、飢饉に苦しむ百姓が長らく救われた。