出自と弾劾の日々
- 劉隗、字は大連、彭城の人、楚元王劉交の後裔。父の劉砥は東光令。文才があり秘書郎から起家、冠軍将軍・彭城内史に累進。乱を避けて渡江し、元帝の従事中郎となった。文史に習熟し主君の意を読むに長け、元帝に深く信任された。丞相司直に遷り刑憲を委ねられた。
- 建康尉が護軍の兵を捕らえた際に府将に奪われた事件で護軍将軍戴若思の罷免を上奏。世子文学王籍之が叔母の喪中に婚姻した件、東閣祭酒顔含が叔父の喪中に娘を嫁がせた件を弾劾。廬江太守梁龕が服喪明け前日に客を招いて伎楽を催し、丞相長史周顗ら三十余人が同席した件では、梁龕の免官・爵位削除と周顗らへの一月分の俸給削減を求め、いずれも容れられた。
- 丞相行参軍宋挺が、前主劉陶の死後にその愛妾を娶り、さらに官布を盗んだ罪で処刑されるべきところ赦免された経緯を弾劾し、宋挺を推挙した奮武将軍阮抗も併せて弾劾した。宋挺の病死後もなお除名・妾の没収を求め、先例(鄭人が子家の棺を斲った故事、漢の明帝が史遷を追討した故事)を引いて死者への追及の正当性を論じた。
- 南中郎将王含が一族の権勢を恃み不適格な人事を行った際にも厳しく弾劾したが、王氏の深い恨みを買った。それでも強権を恐れず弾劾を続けた。
淳于伯の冤罪事件
- 建興年間、丞相府が督運令史淳于伯を斬った際、血が柱を二丈三尺も逆流したという怪異が起き、劉隗はこれを冤罪として上奏。淳于伯の子淳于忠の訴えを引き、糧運の遅延は軍興不足罪に当たらないと論じ、周筵・劉胤・李匡ら担当者の免官を求めた。右将軍王導らが引責辞任を願い出たが、元帝は「刑罰の失は私(帝)の不明による」として問わなかった。
刁氏との連携と丹陽尹
- 御史中丞となり、周嵩の娘の婚礼で門生が乱闘を起こし建康左尉が負傷した事件で周嵩の兄周顗を弾劾、周顗は免官された。太興初、侍中を兼ね都郷侯に叙され、薛兼に代わり丹陽尹となり、尚書令刁協と共に元帝に重んじられ豪強の抑圧に努めた。厳しい政策は劉隗・刁協の建議とされた。鎮北将軍・都督青徐幽平四州軍事・仮節・散騎常侍として一万の兵を率い泗口に鎮した。
王敦との対立
- 王敦の権威が強大化するのを見て、元帝に腹心を各地に配すべきと進言、譙王司馬承を湘州刺史とし、自ら及び戴若思を都督とした。王敦はこれを深く憎み、劉隗に共闘を促す書を送ったが、劉隗は「魚は江湖に、人は道術に忘れ去られるもの、股肱の力を尽くし忠貞を尽くすのが私の志」と答え、王敦を激怒させた。
- 王敦の乱に際し、劉隗討伐を名目に召還され、百官に出迎えられても意気自若としていた。刁協と共に王氏誅殺を上奏したが容れられず、金城に屯した。石頭陥落後もなお攻めきれず、宮中に別れを告げると帝は涙した。淮陰で劉遐に襲われ、妻子と親信二百余人を連れて石勒の下へ奔り、従事中郎・太子太傅となった。享年六十一。子の劉綏は駙馬都尉・奉朝請となったが、父に従い石勒の下で卒した。孫の劉波が嗣いだ。
孫 波
- 劉波、字は道則。石季龍(石虎)の将王洽の参軍を経て、石季龍の死に伴い王洽と共に東晋に降った。穆帝の下で襄城太守、桓沖の中軍諮議参軍となった。桓温の袁真討伐に際し淮南内史として石頭に鎮し、壽陽平定後は南郡相となった。苻融の襄陽包囲で朱序救援に赴くも兵力不足で進めず、朱序は陥落、劉波は畏懦により免官されたが後に散騎常侍まで復帰した。
- 苻堅の敗北後、督淮北諸軍・冀州刺史に任じられたが病で赴任できず、上疏で災異と政治の乱れを憂え、政道の刷新を求めた(長文、本文参照)。この上疏で祖父劉隗の忠節を偲び「凡劣な自分も厚恩を受けたが十分に報いられない」と述べた。上疏の後まもなく卒し、前将軍を追贈。子の劉淡が嗣ぎ、元熙初、廬江太守となった。
伯父 訥
- 劉隗の伯父の劉訥、字は令言、人物鑒識に優れ、洛陽入りの際に王夷甫(王衍)・楽彦輔(楽広)・張茂先(張華)・周弘武・杜方叔らを人物評した逸話が伝わる。司隸校尉に至った。
- 子の劉疇、字は王喬、名声高く名理談論に優れた。塢壁に避難した際、賈胡(西域商人)百人に襲われかけたが笳を吹いて『出塞』『入塞』の曲を奏し、彼らの望郷の念を誘って涙のうちに立ち去らせた逸話がある。永嘉中、司徒左長史に至り閻鼎に殺された。司空蔡謨・王導ともにその渡江を惜しむ言葉を残すほど名流に推服された。
- 劉疇の兄の子の劉劭は才幹があり、琅邪王丞相(王導)の掾に召され、御史中丞・侍中・尚書・豫章太守(中二千石)を歴任。
- 劉劭の族子の劉黄老は太元中、尚書郎として『慎子』『老子』の注を著し世に伝わった。