概観
- 元帝には六人の子があった。宮人荀氏は明帝と琅邪孝王裒を、石婕妤は東海哀王沖を、王才人は武陵威王晞を、鄭夫人は琅邪悼王煥と簡文帝を生んだ。
琅邪孝王裒
- 琅邪孝王裒、字は道成、母は荀氏、微賤の身から入宮し元帝の命で虞妃に養われた。叔父長楽亭侯渾の後を継ぎ、のち宣城郡公に徙封、後将軍。元帝が晋王となった際、太子選定の議で「裒は成人の器量が明帝を上回る」との評もあったが、元帝は王導に「子を立てるは徳によるべきで年齢によらぬ」と語り、王導は「両者とも優れているのだから年齢によるべき」と応じ、明帝の太子位が定まった。裒は琅邪に改封され恭王(渾)の後を嗣ぎ、会稽・宣城の邑五万二千戸、散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎将軍として京師に召還。建武元年、十八歳で薨去、車騎大将軍・侍中を追贈。妃山氏の薨去に伴い穆帝が太保を追贈。子の哀王安国は跡を継いで一年経たず薨去。
東海哀王沖
- 東海哀王沖、字は道譲。元帝は東海王越の世子毗が石勒のもとで生死不明になったため、沖にその後を継がせ東海世子と称させ、毘陵郡を加増(食邑一万戸)、のち下邳・蘭陵に改め、越の妃裴氏を太妃とし長水校尉。沛国の劉耽を司馬、潁川の庾懌を功曹、呉郡の顧和を主簿とするなど僚佐を厳選した。永昌初、中軍将軍・散騎常侍。太妃の薨去を機に毗の喪を発し、沖は東海王位に就く。滎陽を加増し車騎将軍、のち驃騎将軍。咸康七年、三十一歳で薨去、侍中・驃騎大将軍・儀同三司を追贈、無子。
- 成帝は臨終の詔で、東海王家の絶嗣を憂い、皇子奕(のちの廃帝)を沖の嗣とし東海王とした。哀帝が琅邪王として即位すると奕は琅邪王に徙封され東海国は再び絶えた。奕はのち帝位に就くが桓温に廃され東海王に戻され、さらに海西公に貶められて国は再度絶える。隆安三年、安帝は会稽忠王の次子彦璋を東海王とし哀王の曾孫として嗣がせ、呉興郡を食邑としたが、彦璋は桓玄に殺され国は除かれた。
武陵威王晞――封国と政変
- 武陵威王晞、字は道叔、武陵王喆の後を継ぎ、太興元年受封。咸和初、散騎常侍。湘東を加増され左将軍、鎮軍将軍・散騎常侍。康帝即位で侍中・特進、建元初に秘書監、穆帝即位で鎮軍大将軍、太宰。太和初、羽葆鼓吹・入朝不趨・賛拝不名・剣履上殿を加えられたが固辞した。
- 学識はないが武幹があり桓温に忌避された。簡文帝即位に際し桓温は「晞は皇族の重みを恃み、法度に従わず軽薄な者を集め亡命者を匿い、子の綜は残忍で人に危害を加え、袁真の叛逆にも関わりがある、免官のうえ籓に帰すべき」と上表。世子綜も免官、子㻱も散騎常侍を解かれ、梁王として晞に付き従っていた㻱の馬八十五匹・従者三百人も桓温に送られた。桓温はさらに新蔡王晃を脅し、晞・綜・殷涓・庾倩・曹秀・劉彊らの謀反を自白させ廷尉に下し誅殺を求めたが、簡文帝は許さず。桓温は晞を新安郡へ徙し、殷涓らを族誅、晃を沖陽郡へ廃した。
- 太元六年、六十六歳で新安に没す。孝武帝は三日間哭し、霊柩を迎え妃応氏・故世子梁王らの喪も改葬させた。詔して新甯郡王(食邑千戸)を追封。晞の三子は綜・㻱・遵、遵が嗣ぐ。綜は給事中、㻱は散騎郎を追贈。十二年、武陵国を復し、綜・㻱もそれぞれ旧官を復され、㻱は梁国を継いだ。
武陵威王晞の子孫・梁王系
- 梁王㻱、字は賢明、梁王翹の後を継ぎ永安太僕、父晞と共に廃された。薨去、子の和が嗣ぐ。太元中に国を復す。薨去、子の珍之が嗣ぐ。桓玄簒奪時、国人孔樸が珍之を奉じて寿陽に奔る。桓玄敗死後、珍之は朝廷に帰る。太将軍武陵王遵(前出の遵、後述)の令で「珍之は険難を乗り越え義に従い帰参した」と評され通直散騎郎、のち遊撃将軍・左衛・太常を歴任。劉裕の姚泓討伐に諮議参軍として招かれたが、劉裕は王室の力を弱めるため誣告し殺害した。
- 忠敬王遵、字は茂遠。十二歳で新甯を襲封、拝礼の際に涙を流し左右を感動させた。右将軍桓伊の来訪に「なぜ桓氏を通すのか」と問い、「伊は桓温と疎遠な一族なので嫌う必要はない」と言われても「桓の姓を聞けば殺したくなるほどだ、ましてや他の桓氏は」と答え、幼くして聡明と称された。晞の武陵王復封に伴い嗣となり、散騎常侍・秘書監・太常・中領軍を歴任。桓玄執政下で金紫光禄大夫、桓玄簒奪後は彭澤侯に貶められ赴任させられる。石頭で船が破損し出発できずにいる間に義兵が興り、武陵国第に戻った。
- 朝廷は密詔を受けたと称し遵に万機を総摂させ、侍中・大将軍を加え東宮に移らせて内外がこれに従った。安帝復位後は太保に転じ班剣二十人を加えられる。義熙四年、三十五歳で薨去、東園温明の葬具・朝服一具・衣一襲・銭百万・布千匹を賜り、太傅を追贈、殊礼で葬られた。子の定王季度が嗣ぎ散騎侍郎を拝命。薨去、子の球之が嗣ぐ。宋の興りとともに国は除かれた。
琅邪悼王煥
- 琅邪悼王煥、字は耀祖。母が寵愛され元帝に特に愛された。帝弟長楽亭侯渾の後を継ぎ、のち顕義亭侯に封ぜられる。尚書令刁協は「魏の臨淄侯(曹植)は邢顒・劉楨を家丞・庶子としたが、幼い煥には明徳の人を選ぶべき」と上奏。元帝は「植は少年でも美才があった、幼弱な煥に同じ待遇は無用、家丞・庶子は祭祀を司る程度で足りる、賢才を無用な地位に屈させる必要はない」と答えた。煥の病篤い際、帝は食を断ち琅邪王に封じ恭王の後を嗣がせたが、まもなく二歳で薨去した。
琅邪悼王煥――柏曆の礼を巡る諌言
- 帝は悲嘆のうえ、幼くして封国を持った煥に成人の礼を加え、凶門柏曆を立て吉凶の儀服を備え陵園を大規模に造営しようとした。琅邪国右常侍の孫霄がこれを諫める上疏を行い、要旨は次の通り。
- 法度典制は先王の重んじるところ、吉凶の礼は過度を戒めるべきである。棺槨や輿服の礼制は廃せぬが、凶門柏曆は礼典にない慣行で、晴天なら不要、雨天でも実益がなく、まず節減すべき。
- 『礼記』の規定(国君の棺槨の間は柷、大夫は壺、士は甒の容積差)に照らせば、槨を過大にすることは望ましくない。国難の時勢に鑑み、既定の礼制すら簡略化すべきなのに、旧に過ぎる贅美を加えるべきではない。
- 柩を墓に長く留めず、埋葬当日に反哭・虞祭を行うのが古礼であり、墓側に草宮を営むのも典拠がない。
- 天下は江表の半州に縮小し困窮しているうえ旱魃も重なり、民は死を恐れる有様、これは陛下が最も憐れむべきこと。まさに旧弊を正すべき時に、無益な事業に人と財を費やすべきではない。琅邪国は天下最大の国、非礼の事を省き古典に従えば、朝廷の質素の徳が天下に示され、後世の模範ともなろう。
- この上表は取り上げられなかった。
琅邪王の系譜と道子登場
- 永昌元年、煥の母弟昱(のちの簡文帝)が琅邪王に立てられた。咸和二年、会稽に徙封され、康帝が琅邪王となる。康帝即位で哀帝が、哀帝即位で廃帝が、廃帝即位で簡文帝が摂行、簡文帝の即位で琅邪国は嗣なく、帝は臨終に少子道子を琅邪王に封じた。太元十七年、道子は会稽王に転じ恭帝が琅邪王となり、恭帝即位でついに琅邪国は除かれた。