晉書卷六十 列傳第三十 張方

河間王の懐刀としての戦功と非業の最期

  • 張方、河間の人。代々貧賤の家であったが才勇によって河間王顒に寵愛され振武將軍を兼ねるに至った。永寧年間、顒が齊王冏討伐を上表した際、方に兵2万を率いさせ前鋒とした。冏が長沙王乂に殺されると、顒及び成都王穎は再び乂討伐を上表し、方に兵を率いさせ函谷から入り河南に屯させた。惠帝は左將軍皇甫商に防がせたが、方は密かに軍を進めて商の軍を破り城内に入った。乂は帝を奉じて城内から方を討ち、方の軍は帝の乗輿を望見してやや退いたが、方はこれを止められず軍は大敗し死傷者は街路に満ちた。方は十三里橋に退いて塁を築いたが、士気は挫かれ夜逃げを勧める声も多かった。方は「兵の利鈍は常のこと、敗を機に転じて成すことが肝要だ。私は前方に新たに塁を作り不意を突く、これが用兵の奇である」と述べ、夜密かに進んで洛城の7里まで迫った。乂は勝ったばかりで油断しており、突然方の塁が完成したと聞いて出撃したが敗れた。東海王越らは乂を捕らえ金墉城へ送った。方は郅輔に乂を営へ連れ戻させ、火で炙り殺させた。方は洛陽の官私の奴婢1万余人を大いに略奪し西の長安へ帰った。顒は方を右將軍・馮翊太守に加えた。
  • 蕩陰の戦いの際、顒は再び方に洛陽を鎮させようとしたが、上官巳・苗願らがこれを防ぎ方は大敗して退いた。清河王司馬覃が夜、巳・願を襲うと2人は逃走し、方はこうして洛陽に入った。覃は廣陽門で方を出迎え拝礼したが、方は馬車から急いで降りてこれを止めた。皇后羊氏は再び廃された。帝が鄴から洛陽へ戻ると、方は子の張羆に騎兵3千で奉迎させた。河橋を渡ろうとする際、方はさらに自らの乗るべき陽燧車と青蓋の車を用意し素の兵300人を小鹵簿とし帝を芒山下まで迎えた。方自ら1万余の騎兵を率い雲母輿と旌旗の飾りを奉じて帝を衛りながら進んだ。方は帝に拝礼しようとしたが、帝は自ら車を降りてこれを止めた。
  • 方が洛陽に長く留まる間、兵士は横暴を極め略奪を働き、哀獻皇女の墓まで暴いた。軍人は騒然として落ち着かず、西の長安への遷都を議しながらその意図を隠し、天子が外出した隙に都を移そうと画策していた。方は帝に廟への参拝を求めたが帝は許さなかった。方はついに兵をことごとく率いて殿に入り帝を迎えようとし、帝は兵の到来を見て竹林に避けたが、軍人が引き出した。方は馬上で稽首して「胡賊が横行し宿衛は少ない、陛下は今日私の塁に行幸されるべきです、私が寇難を防ぎ死をもって尽くします」と述べた。しかし軍人は勝手に宮閣へ乱入し流蘇武帳(帝の帳幕の装飾)を切り取って馬の飾りにしてしまった。方は帝を弘農まで奉じたが、顒は司馬周弼を遣わして皇太弟の廃位を伝えさせ、方はこれに反対した。
  • 帝が長安に至ると、方は中領軍・録尚書事・領京兆太守とされた。当時、豫州刺史劉喬が檄を発し、潁川太守劉輿が范陽王虓に迫って詔命に逆らわせたと告げ、東海王越らが山東で挙兵すると、方は歩騎10万を率いてこれを討伐に赴いた。方は霸上に屯したが、劉喬は虓らに破られた。顒は喬の敗を聞いて大いに恐れ兵を解こうとしたが、方が従わないことを恐れ躊躇して決断できなかった。
  • かつて方が山東から来た時は身分卑しく、長安の富人郅輔が厚く世話をしていた。方が貴顕になると輔を帳下督として深く親しんだ。顒の参軍畢垣は河間の名族出身であったが方に侮られていたため恨みを抱き顒に「張方は長らく霸上に屯し、山東の賊が盛んと聞きながら盤桓として進まず、未然に防ぐべきです。彼の親信の郅輔がその謀をすべて知っています」と説いた。繆播らも先にこれを構えていたため、顒は輔を召させ、垣は先回りして輔に「張方が反逆しようとしていると人は君も知っていると言っている、王がもし問えばどう答えるか」と説いた。輔は驚いて「実際は方の反逆など知らない、どうすればよいか」と問うと、垣は「王が問われたら、そうだ、と答えなさい、さもなければ禍を免れないだろう」と言った。輔が参内すると顒は「張方が反逆する、卿はそれを知っているか」と問い、輔は「そうです」と答えた。顒が「卿を遣わして討たせてよいか」と重ねて問うと、輔はまた「そうです」と答えた。顒はこうして輔に方への書を持たせ、これを機に方を殺させることとした。輔は方に親しんでいたため刀を持って入っても守る者に疑われず、灯りの下で書函を開くふりをして方の首を斬った。顒は輔を安定太守とした。
  • かつて繆播らは方を斬りその首を越に送れば東軍を解散させられると議していたが、方の死を聞いた東軍はかえって争って関に入ったため、顒はこれを大いに恨み、人を遣わして輔をも殺させた。

史論

  • 史臣は言う。晉の禍難が相次いで起こったのは、実に籓翰(宗室・重臣)に始まる。解系らはその時の才幹をもって危乱の時に処し、みな府朝に身を寄せ王室の謀に参与した。あるいは忠を尽くし節を守り、あるいは詐りを飾り奸を懐いた。邪と正で道は異なっても、みな誅戮に至ったのは、時が困難で政が乱れ利が深ければ禍も速いということではないか。古人が「危邦には入らず、乱邦には居らず」と戒めたのはこのためである。