晉書卷六十 列傳第三十 孟觀

斉萬年討伐の功と趙王倫への忠

  • 孟觀、字は叔時、渤海東光の人。若くして読書を好み天文に通じた。惠帝即位後、殿中中郎に遷った。賈后は舅姑への礼を無視し、楊駿を誅して太后を廃そうと密かに図り、駿が専権を握っていることを理由にしばしば帝に讒言し、また人を遣わして観に暗に伝えさせた。楚王瑋が駿討伐に赴く際、観は賈后の意を受けて詔を宣べ、事実を誣告する内容を加えた。駿の誅殺後、観は黄門侍郎とされ特に親信40人を給された。積弩將軍に遷り上穀郡公に封じられた。
  • 氐の首領齊萬年が関中で反し数十万の衆となり、諸将は次々に敗れた。中書令陳準・監張華は、趙王・梁王ら諸王が関中にありながら貴戚として悠然と構え進んでも功を貪らず退いても罪を恐れず、士卒が多くても用いられず、周処の敗死もこれが原因で上下離心し敵に勝てないと見て、観の沈毅で文武の才があることから討伐を委ねるよう進言した。観の率いる宿衛兵はみな敏捷で勇猛であり、関中の兵も統べて自ら矢石に身を晒し大戦十数回すべてに勝ち、齊萬年を生け捕りにし氐羌を威服させた。東羌校尉に転じ右將軍に召された。
  • 趙王倫の簒位に際し、観の功績が著しいことから安南將軍・監河北諸軍事・仮節として宛に屯させられた。観の子の孟平は淮南王允の前鋒將軍として倫討伐に従い戦死した。孫秀は観が兵を握って外にいることを恐れ、平が允の兵に殺されたと偽って積弩將軍を追贈し観を安心させた。義軍の挙兵後、多くの者が観に齊王冏への呼応を勧めたが、観は紫宮帝坐(天文の観測で示される帝位の異変)に変化がないとして倫が最終的に勝つと考え、衆議に従わず倫を守った。帝の復位後、永饒冶令の空桐機が観の首を斬り洛陽に伝え、三族を滅ぼされた。