晉書卷五十九 列傳第廿九 東海王越
八王最後の一人の憂死
- 東海孝獻王司馬越、字は元超、高密王司馬泰の次子。若くして令名があり謙虚で布衣の操を持し、中外に尊ばれた。初め世子として騎都尉となり、駙馬都尉楊邈及び琅邪王司馬伷の子の司馬繇とともに東宮で侍講し、散騎侍郎を拝し左衛將軍を歴任し侍中を加えられた。楊駿討伐に功があり五千戸侯に封じられた。散騎常侍・輔國將軍・尚書右僕射に遷り遊撃將軍を領した。再び侍中となり奉車都尉を加えられ温信50人を給され、別に東海王に封じられ六県を食んだ。永康初年、中書令となり侍中に転じ司空に遷り中書監を領した。
- 成都王穎が長沙王乂を攻めた際、乂は洛陽を固守したが、殿中の諸將及び三部司馬は戦守に疲弊し、密かに左衛將軍朱默とともに夜乂を別省に捕らえ越を主に推し、惠帝に乂の免官を上奏させた。事が定まると越は病と称して位を退こうとしたが帝は許さず守尚書令を加えた。太安初年、帝が鄴へ北征する際、越は大都督となった。六軍が敗れると越は下邳へ逃れたが徐州都督東平王楙は受け入れず、越はそのまま東海へ戻った。成都王穎は越兄弟の宗室としての美点を見て寛大な令を下して招いたが越は応じなかった。帝が西へ行幸すると越は太傅となり太宰顒とともに朝政を輔けたが辞退した。東海中尉劉洽は越に穎に備え兵を発するよう勧め、越は洽を左司馬、尚書曹馥を軍司とした。挙兵すると楙は恐れ州を越に譲った。越は司空として徐州都督を領し楙を兗州刺史とした。越の3人の弟はみな方任にあって征伐に当たり刺史・太守を選任したため朝士の多くが越のもとに集まった。河間王顒は天子を擁して詔で越らの罷免を命じ封国へ帰らせようとした。越は義を唱えて大駕を迎え旧都へ戻すため甲卒3万を率いて西進し蕭県に駐屯した。豫州刺史劉喬が越の命を受け入れず子の劉祐に防がせると越の軍は敗れた。范陽王虓は督護田徽に突騎800を率いさせ越を迎え、譙で祐と遭遇すると祐の軍は潰え、越は陽武に進んで屯した。山東の兵が盛んになると関中は大いに恐れ、顒は張方の首を斬って送り和を求めたが、まもなく計を変え越に対抗した。越は諸侯及び鮮卑の許扶曆・駒次宿歸らの歩騎を率いて惠帝を迎え洛陽に復位させた。詔で越を太傅・録尚書事とし下邳・濟陽二郡を加増された。
- 懐帝の即位後、政を越に委ねた。吏部郎の周穆は清河王司馬覃の舅で越の姑の子であったが、妹婿の諸葛玫とともに越に「主上(懐帝)が太弟となったのは張方の意向によるものです。清河王はもと太子でしたが凶徒によって廃されました。先帝は急逝され東宮(懐帝)には疑いが多くありました。公は伊尹・霍光の挙を思い社稷を安んじられませんか」と説いた。言い終わらぬうちに越は「これは言ってよいことか」と述べ左右に命じて斬らせた。玫・穆は世家の出であったため罪は本人のみに留め、これを機に三族連座の法を廃するよう上表した。帝が親政を始め庶事に心を留めるようになると、越は不快に思い外の封国に出ることを求めたが帝は許さなかった。越はついに許昌に出鎮した。
- 永嘉初年、許昌から苟晞及び冀州刺史丁劭を率いて汲桑を討ち破った。越が許に戻ると長史潘滔は「兗州は天下の要衝です、公自ら治めるべきです」と勧めた。苟晞を青州刺史に転じさせたため、これにより晞との間に確執が生じた。
- まもなく詔で越を丞相とし兗州牧を領させ、兗・豫・司・冀・幽・并の六州を督させた。越は丞相を辞退して受けず、許から鄄城へ遷った。越は清河王覃が終には皇太子に立つことを恐れ、詔を偽って金墉城に捕らえ、まもなく殺害した。
- 王彌が許に入ると、越は左司馬王斌に甲士5千を率いさせ京都を守らせた。鄄城の城壁が自然に崩れたため、越はこれを不吉とし濮陽へ移り、さらに滎陽へ移った。田甄ら六率を召したが甄は命に従わず、越は監軍劉望に甄を討伐させた。かつて東嬴公司馬騰が鄴に鎮した際、并州の将田甄、甄の弟の田蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛らの部衆1万余人を連れて鄴に至り冀州の穀を食わせたため「乞活」と呼ばれた。騰の敗死後、甄らは赤橋で汲桑を破ったため、越は甄を汲郡太守、蘭を鉅鹿太守とした。甄が魏郡を求めたが越が許さなかったため甄は怒り、召しに応じなかった。劉望が河を渡ると甄は退いた。李惲・薄盛は田蘭を斬りその衆を率いて降った。甄・祉・濟は軍を棄てて上党へ逃げた。
- 越は滎陽から洛陽に戻り太学を府とした。朝臣が自分に異心を抱くことを疑い、帝の舅王延らが乱を企てていると誣告し、王景に甲士3千を率いさせ延らを捕らえ廷尉に付して殺させた。越は兗州牧を解き司徒を領した。越は苟晞との確執を深め、さらに近年の事変の多くが殿省から起こったとして侯爵を持つ宿衛の者はみな罷免するよう奏した。当時、殿中の武官はみな侯に封じられていたため、これによりほとんどが去り涙を流して退いた。東海国上軍將軍何倫を右衛將軍、王景を左衛將軍とし、国兵数百人を率いて宿衛させた。
- 越は王延らを誅して以来、大いに人望を失い猜疑の心が募った。散騎侍郎高韜が国を憂える発言をすると、越は時政を謗ったと誣告してこれを害し、自身も不安を覚えた。そこで軍服姿で帝に見え、石勒討伐と兗・豫の鎮撫・京師支援を願い出た。帝は「今、逆虜が郊畿に迫り王室は動揺し人心も定まっていない。朝廷・社稷は公に頼るところが大きい、どうして遠く出て根本を空虚にできようか」と述べた。越は「臣が今兵を率いて賊を迎え撃てば必ずこれを滅ぼせます。賊が滅べば逞しい者も消え東方諸州の朝貢も通じます。これは国威を宣揚し藩屏を固める道です。もし宮中に端座して機会を逃せば禍の兆しは日々増し憂いはさらに重くなります」と答え、出立した。妃裴氏、世子で鎮軍將軍の司馬毗、龍驤將軍李惲・何倫らを京都の守衛に残した。行台を軍に随わせ甲士4万を率いて東の項に屯し、王公卿士で随従する者は多数に上った。詔で九錫を加えられた。越は四方に檄を飛ばし「皇綱は統御を失い社稷は多難、私は非才ながら大任を務めてきた。近頃、胡の賊が内に迫り将兵は利を失い、帝郷(洛陽)は戎州となり冠帯(中華の文物)の地は異域と化し、朝廷上下は憂懼している。これはみな諸侯の躊躇によりこの禍に至った。袖を振り履も履かず討伐すべきだったが今や遅きに失した。人情は根本を奉じるものであり、義憤しない者はない。今、合流の衆を集め戦守の備えを待つべきだ。宗廟と主上のために互いに頼り匡救すべし。檄が至ったならただちに奮起せよ、忠臣戦士が誠を尽くす秋である」と告げたが、召集に応じる者はなかった。苟晞もまた越討伐を上表した(詳細は「晞伝」に記す)。越は豫州刺史馮嵩を左司馬とし自ら豫州牧を領した。
- 越は威権を専らにし覇業を図り、朝廷の名望ある賢士を選んで佐吏とし名将・精兵を自らの府に集め、不臣の跡は四海に知れ渡った。しかし公私ともに窮乏し各地で寇乱が起き州郡は離反し上下は瓦解し、禍根は深まり越は憂懼のあまり病を得た。永嘉5年(311年)、項で薨じた。喪は秘された。襄陽王司馬範を大將軍としその衆を統率させた。柩は東海へ帰葬されようとしたが、石勒が苦県甯平城で追いついた。將軍錢端が出兵して勒に対抗したが戦死し軍は潰えた。勒は越の柩を焼くよう命じ「この者が天下を乱した、私は天下のために報復する、それゆえその骨を焼いて天地に告げる」と述べた。数十万の衆を勒は騎兵で囲んで射させ、踏み殺された者は山のように重なった。王公士庶の死者は10万余に及んだ。王彌の弟の王璋は残った衆を焼き払いさらに食らった。天下は越に罪を帰した。帝は詔を発し越を縣王に貶めた。
- 何倫・李惲は越の死を聞くと喪を秘し、妃裴氏及び司馬毗を奉じて京邑を出た。従う者は城を挙げるほど多く、通る先々で略奪が行われた。洧倉に至った時、再び石勒に敗れ、毗及び宗室36王がみな賊の手に落ちた。李惲は妻子を殺して広宗へ逃げ、何倫は下邳へ逃げた。裴妃は人にさらわれ呉氏に売られたが、太興年間に渡江することができ、越の招魂葬を望んだ。元帝は詔で有司に詳議させ、博士傅純は「聖人が礼を制定したのは事に情を沿わせるためであり、塚槨を設けて形を蔵すのは凶事として、廟祧を立てて神を安んじるのは吉事として、それぞれ扱う。形を送って葬り、精霊を迎えて祀る、これが墓と廟の大きな区別であり形と神の異なる制である。室廟・寢廟・祊祭が一処ではないのは広く神の道を求めるためだが、それでも墓で祀ることはない、それは神の居るところではないからだ。今、形と神の区別を乱し廟と墓の区分を誤らせることは礼制の義に反すること甚だしい」と論じ、詔でこれを許さなかった。裴妃は詔に従わず越を廣陵に葬った。太興末年、墓が壊れ丹徒に改葬された。
- かつて元帝が建鄴に鎮した際には裴妃の意向によるところがあり、帝はこれを深く徳とし度々その邸を訪れ、第三子の司馬沖を越の後嗣とした。沖が薨じ子がなかったため、成帝は末子の司馬奕にこれを継がせた。哀帝の代に奕は琅邪王に転封され、東海の家系は嗣子を絶った。隆安初年、安帝はさらに會稽忠王の次子司馬彥璋を東海王とし沖の曾孫として継がせたが、桓玄に殺害され国は除かれた。
史論
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史臣は言う。昔、高辛氏(帝嚳)が天下を治めた際にも参・商(不和な兄弟の星)の禍が起こり、周室が暦を継いだ際にも管叔・蔡叔の禍が絡んだ。前代の書を観れば乱臣賊子の戒めは明らかである。晉は興隆するや藩屏を篤く崇め茅土を分け瑞を与え、その道は常典に照らして光輝き、儀礼・冠服も彝章に備わっていた。汝南王(亮)は純和な資質でありながら決断力を欠き、楚隱王(瑋)は果敢な性質を持ちながらついに凶暴に至った。ある者は朝廷の要職に居り、ある者は近侍の職にあったが、みな女子(賈后)に謀られ次々に誅されたのは、自ら招いたこととはいえまことに哀しむべきことである。倫は実に凡庸で孫秀に欺かれ密かに異図を企て奸慝を煽り立てた。かくして皇太子は無実の怨みを受け上宰(亮ら)は誅殺され、乾耀(皇統)は一時傾き皇綱は途中で崩れた。ついに冠冕を裂き毀ち百六の会(危機の時運)に乗じ、璽を握り纛を掲げ九五の尊(帝位)を窺うに至った。神器は決して偸安すべきものではなく、鴻名(帝位の名)は妄りに借りるべきものではない。それでいて淫祀に頼って天寿を全うしようとしたのは、凶暗の極みでありこれ以上のものはない。冏は名父(獻王攸)の子として義を唱え王事に勤め、既に成った偽業を摧き傾いた皇輿を救った、その策勲考績はまことに称するに足る。しかし禍に臨んで憂いを忘れ心のままに欲を縦にし、楽しみは極めるべきでなく満は久しく保ち難いことを知らず、古人の未熟を笑いながら自らの事の拙さを忘れた。もし王豹の奇策を採り孫惠の嘉謀を納れ、高らかに袞章(帝の礼服)を辞して永く東海(斉国)に留まっていれば、古の伊尹・霍光にも勝るものがあったであろう。長沙王(乂)は材力人に優れ忠概は俗を超え、弓を投げて掖門に赴いた様は落々として壮夫の気を示し、車を馳せて魏闕に至った様は凛々として烈士の風を懐いていた。時運は不遇であったが君臣の情を失うことはなく、その遺した節義は終始観るべきものがあった。穎は大権を総覧し重鎮を出で、中台(朝廷)はこれによって事を成し東夏(河北)はこれに心を寄せたが、河間王と結託して進取を図った。顒は李含の狡猾さを用い張方の凌虐に頼り、武閔(冏)を殺し長沙(乂)を斬らせ、君を無視する志を逞しくし不義の強さを誇った。鑾駕(天子)が北へ巡ったのは征しても戦わずというに程遠く、乗輿が西へ行幸したのは望秩(巡狩の礼)や観風によるものではなかった。火が原野を焼くようであれば、まだ消し止めることもできるが、これほどの残忍さがあれば、及ぶところはなかったであろう。東海(越)は同盟を糾合し義挙を創めたが、匡復の功が立たぬうちに陵暴の兆しが既に現れ、車徒を尽くして固く出鎮を求めた。やがて帝京は寡弱となり狡猾な賊が跋扈し、神器(天子)は劫され遷され宗社は覆り、数十万の衆はみな豺狼の餌食となり36王はみな鋒刃に命を落とした。禍難の極みは古来聞いたことがないほどであった。焚かれるに至ったのもなお幸いというべきかもしれない。惠帝が政を失って以来、難は蕭牆(内輪)から起こり骨肉相食み民は塗炭に苦しみ、胡塵が驚いて天地は閉ざされ戎兵が交わって宮廟は崩れた。皇族の内紛が禍の端緒を開き戎羯(異民族)がその間隙に乗じた、悲しいことである。『詩経』に「誰がこの禍の階を生んだのか、今に至るまで害をなしている」とあるが、まさに八王のことを言うのであろう。
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賛に言う。亮は朝政を総べたが、瑋は職を競って懐いた。讒言と巧言が隙に乗じ、艶妻(賈后)は讒言を過度に聴いた。怨みを構え禍を連ね、次々と非命に遭った。倫は実に下愚でありながら龍図(帝位)を敢えて窃み、常を乱して位を奸り、たちまち厳しい誅を受けた。偉なるかな武閔(冏)、はじめに宏謀を創した。しかし徳が立たなかったのは、まことに悲しむべきことである。長沙(乂)は国に奉じ、始終邪なところがなかったが、功は一簣に欠け、たちまち残賊の禍に遭った。章度(穎)は王事に勤め、功を立て名を揚げたが、関右(顒)と合従して順に逆らい強を争い、事窮まり勢い迫って共に乱亡した。元超(越)は輔佐となり、出でては征し入りては撫めたが、国を敗り師を喪い、君を無視し主を震撼させた。焚かれるという変事も、また自ら招いたことであろう。