晉書卷五十八 列傳第廿八 周訪

周訪、字は士達、もと汝南安城の人で尋陽に居を構えた将門(?–320年)。杜弢・杜曾の乱を平定して荊州・江漢を安定させ「中興の名将」と称された。子孫も代々梁・益州を鎮め、玄孫の虓は前秦に捕らえられてもなお節を守り通した。

年表(9件)
  • 太興三年周訪、卒し諡を壯とされた
  • 咸和初年子の撫、江夏相となった
  • 升平年間撫、鎮西将軍に進んだ
  • 興寧三年撫、卒し諡を襄とされた
  • 太和年間孫の楚、蜀の乱を子の詩に平定させ、この年卒し諡を定とされた
  • 甯康初年玄孫の虓、前秦の楊安に梓潼を侵され、母妻の避難に失敗し捕らえられて降った
  • 太元三年虓、漢中への脱出を図るも捕らえられた
  • 興寧初年光の子の仲孫、督寧州軍事・振武将軍・甯州刺史となった
  • 甯康初年仲孫、蜀の守りを失い免官された

杜曾討伐と江漢の平定

  • 周訪、字は士達、もと汝南安城の人。漢末に乱を避けて江南へ移り、訪で四代を数えた。呉平定の際に廬江尋陽に家を構えた。祖父の周纂は呉の威遠将軍。父の周敏は左中郎将。訪は若くして沈毅で謙譲を能くし決断力に富み、困窮を助け乏しきを救い、家に余財を残さなかった。県の功曹となった際、当時散吏であった陶侃を主簿に推薦し友となり、娘を侃の子の陶瞻に嫁がせた。訪は孝廉に察挙され郎中・上甲令に除せられたがいずれも赴任しなかった。郷人が訪の牛を墓地で盗んで殺した際、訪はこれを知りながら密かにその肉を埋めさせ、誰にも知らせなかった。
  • 元帝が渡江すると、訪は鎮東軍事に参与するよう命じられた。当時、訪と同姓同名の者がおり死罪に当たっていたため、吏が誤って訪を捕らえようとしたが、訪はこれを撃退し、捕吏らは数十人みな逃げ散った。訪は自ら帝の元へ出頭したが、帝は罪に問わなかった。まもなく揚烈将軍に任じられ兵1200を領し尋陽鄂陵に屯し、甘卓・趙誘とともに華軼を討った。訪の統べる厲武将軍丁乾が軼配下の武昌太守馮逸と密通していたため、訪はこれを捕らえて斬った。逸が訪を攻めてくると、訪は軍を率いて撃破した。逸は柴桑へ逃れて守りを固めたが、訪は勝ちに乗じて進撃した。軼は王約・傅劄らに一万余の兵を与え逸を助けさせたが、湓口で大戦し約らはまた敗れた。訪は甘卓らと彭澤で合流し、軼の水軍将朱矩らと戦い再び破った。軼の将周廣が城を焼いて訪に呼応すると軼の軍は潰え、訪は軼を捕らえて斬り、江州を平定した。
  • 帝は訪を振武将軍・尋陽太守とし鼓吹・曲蓋を加えた。再び訪に諸軍とともに杜弢を征討させた。弢は桔槔(撥ね釣瓶式の兵器)で官軍の船を打ったが、訪は長い岐棖を作ってこれを防ぎ、桔槔は害をなせなかった。しかし賊は青草湖から官軍を密かに襲い、また将の張彥を遣わして豫章を陥落させ城邑を焼き払った。当時湓口に鎮していた王敦は督護の繆蕤・李恆に訪の指揮を受けさせ、共に張彥を撃たせた。蕤は豫章の石頭で彥と交戦し彥軍は退却、訪は麾下の将李午らを率いて彥を追撃し撃破、陣中で彥を斬った。この時訪は流れ矢に当たり前歯を二本折ったが顔色を変えなかった。
  • 夕方になり訪は賊と川を挟んで対峙したが、賊は数倍の兵力を擁しており自力では敵し難いと悟ると、密かに人を樵に扮して城外に出し、陣を組み鼓を鳴らして戻らせ「左軍が到着した」と大声で叫ばせ、士卒はみな万歳を唱えた。夜になると軍中に多くの篝火を焚いて食事をさせ、賊は官軍がさらに増援を得たと考え夜が明ける前に退いた。訪は諸将に「賊は必ず退くだろう、しかし結局我らに救援軍がないと知れば戻って掩襲するはずだ、急いで水を渡って北へ行くべきだ」と述べ、渡り終えて橋を落とすと果たして賊が来たが川に阻まれて進めず、湘州へ引き上げた。
  • 訪はさらに水軍で湘城へ向かい、軍は富口に達したが、弢は杜弘を海昏へ出した。当時湓口が騒がしくなったため、訪は徒歩で柴桑へ上り忍んで渡河し、賊と戦い数百の首を斬った。賊は退いて廬陵を守ったが訪は追撃してこれを破り、賊は城に籠って自守した。まもなく軍糧が賊に奪われ、訪は退いて巴丘に留まった。糧が到着すると再び廬陵で杜弘を包囲した。弘は宝物を城外に大量に投げ、軍人が争ってこれを拾う隙に陣を乱して包囲を突破した。訪は軍を率いて追撃し、鞍馬・鎧・武具を数えきれぬほど獲得した。弘は南康に入ったが、太守が兵を率いて迎え撃ちこれも破り、弘は臨賀へ逃げた。帝はさらに訪を龍驤将軍に進め、王敦は豫章太守に上表した。征討都督を加えられ尋陽縣侯の爵を賜った。
  • 当時、梁州刺史張光が卒し、湣帝は侍中第五猗を征南大将軍とし荊・梁・益・寧の四州を監させ武関から出た。賊の杜曾・摯瞻・胡混らはみな猗を迎え奉じ数万の兵を集め、石城で陶侃を破り、宛で平南将軍荀崧を攻めたが克てず、江陵へ兵を向けた。王敦は従弟の敦暠を荊州刺史とし、督護の征虜将軍趙誘、襄陽太守朱軌、陵江将軍黄峻らに曾を討たせたが女観湖で大敗し誘・軌はともに戦死した。曾はついに敦暠を追い、沔口に直行し大いに寇害をなし、その威は江・沔に轟いた。
  • 元帝は訪に曾を撃たせた。訪は八千の兵を擁し沌陽まで進んだ。曾らは鋭気盛んであったが、訪は「先んじて人の心を奪うのが軍の善謀である」と述べ、将軍李恆に左甄(左翼)を、許朝に右甄(右翼)を督させ、自らは中軍を率いて旗幟を高く掲げた。曾は果たして訪を畏れ、まず左右の甄を攻めた。曾は三軍随一の勇者であり訪はこれを大いに嫌い、自ら陣後で雉を射って衆心を安んじた。「一甄が敗れれば鼓を三度、両甄が敗れれば鼓を六度鳴らせ」と命じた。趙胤は父の余兵を率いて左甄に属し力戦したが、敗れては再び集まった。胤が馬を馳せて訪に報告すると、訪は怒って再進撃を命じ、胤は号泣しながら戻って戦い、朝から申の刻まで戦って両甄はともに敗れた。訪は太鼓の音を聞くと精鋭800人を選び、自ら酒を注いで飲ませ、みだりに動かず太鼓の音を聞いてから進めと命じた。賊が三十歩まで迫ると訪自ら太鼓を鳴らし、将士はみな躍り出て駆けつけ、曾はついに大潰し千余人を殺された。
  • 訪は夜も追撃しようとし、諸将は翌日を待つよう請うたが、訪は「曾は驍勇で戦上手であり、先ほどの敗北は彼が疲れ我らが逸したためだ。その衰えに乗じて追撃すれば滅ぼせる」と述べ、太鼓を鳴らして進み、漢・沔を平定した。曾らは逃れて武当に籠った。訪はこの功により南中郎将・督梁州諸軍・梁州刺史に遷り襄陽に屯した。訪は僚佐に「昔、城濮の戦いで晉の文公は得臣(楚の将子玉)が死ななかったことを憂えた。今、曾を斬らなければ禍難は終わらない」と述べ、不意を突いて再び撃破し、曾は逃走した。訪の部将蘇温が曾を捕らえて軍へ送り、あわせて第五猗・胡混・摯瞻らを捕らえ王敦へ送った。訪は敦に猗が曾に脅されていたのであり殺すべきではないと進言したが、敦は聞かず斬った。訪は安南将軍・持節に進み、都督・刺史は従前どおりとされた。
  • かつて王敦は杜曾の乱を憂え、訪に「曾を捕らえれば荊州刺史に推挙しよう」と述べていたが、この時になって敦はこれを用いなかった。王廙が職を去るに及び、詔で訪を荊州刺史とした。敦は訪が名将で勲業が重いことから疑いを抱いた。従事中郎の郭舒は敦に「わが州(荊州)は乱で荒廃してはいるが実に用兵の要地であり、もし他人に委ねれば尾大の患いとなろう、公自ら領するのがよい、訪には梁州で十分だ」と説き、敦はこれに従った。訪は大いに怒った。敦は自筆の書で釈明し、玉環・玉碗を贈って厚意を示したが、訪は碗を地に投げ捨て「私は商人ではない、宝物で喜ぶと思うのか」と言い、密かに敦を除こうと図った。
  • 訪は襄陽にあって農を勧め兵を訓練し、進言を積極的に受け入れ、太守・県令に欠員が出ればすぐに補ってから朝廷に報告するようにした。敦はこれを憂えたがその強さを憚り、あえて異を唱えなかった。訪の威風は既に著しく、遠近の人々は悦服し、智勇は人に優れ中興の名将となった。性格は謙虚で功績を語ることがなかった。ある人が「人は小さな善行でもすぐに自ら誇るものだが、卿ほどの功勲がありながら一言もないのはなぜか」と問うと、訪は「朝廷の威霊、将士の働きによるものだ、私に何の功があろうか」と答え、士人はこれを重んじた。訪は兵を練り卒を選び、中原に力を尽くそうと李矩・郭默と結び、慨然として河・洛の平定を志した。士衆を撫で治めることに長け、士卒はみな命を捧げようとした。敦に不臣の心があると聞くと訪は常に切歯した。敦は逆謀を懐きながらも訪が生きている間は最後まであえて事を起こさなかった。
  • かつて訪が若い頃、廬江の人相見の陳訓に会った際、陳訓は訪と陶侃に「二君はともに位は方岳(大州の刺史)に至り功名もほぼ同じだが、陶は上寿(長寿)を得、周は下寿となる、優劣はただ年齢によるものだ」と語った。訪は侃より一歳年少で、太興三年(320年)に61歳で卒した。帝はこれを聞いて甚だしく哭き、詔して征西将軍を追贈し諡を壯とし、本郡に碑を立てさせた。二子、撫と光があった。

  • 周撫、字は道和。強毅で父の風があったが将としての手腕は父に及ばなかった。元帝に丞相掾に招かれ、父の喪で去官。喪が明けると爵を襲い鷹揚将軍・武昌太守に除せられた。王敦は従事中郎に招き、鄧岳とともに敦の爪牙となった。甘卓が殺害された後、敦は撫を沔北諸軍事・南中郎将として沔中に鎮させた。敦が反乱を起こすと撫は二千人を率いて従った。敦が敗れると撫は鄧岳とともに逃亡した。撫の弟の光が兄に物資を送る一方で密かに岳を捕らえようとすると、撫は怒り「私は伯山(岳)とともに逃げているのに、なぜ先に私を斬らないのか」と言った。岳が到着すると撫は門を出て遠くから「なぜ早く去らないのか、今、骨肉ですら互いに危害を加えようとしている、まして他人はなおさらだ」と言い、岳は船を戻して逃げた。撫はそのまま西陽の蛮族の地に入り、蛮酋の向蠶がこれを受け入れた。かつて岳が西陽にいた頃、諸蛮を討伐しようとしたため蛮族はみな岳を恨んでおり殺そうとしたが、蠶は「鄧府君は窮して私を頼ってきた、どうして殺すことができようか」と許さず、両者は共に助かった。翌年、詔で敦の党を赦し、岳・撫は朝廷に赴いて罪を請うたが、禁錮の処分を受けた。
  • 咸和初年、司徒王導は撫を従事中郎とし、外に出て甯遠将軍・江夏相となった。蘇峻の乱の際、配下を率いて温嶠に従い討伐した。峻の乱が平定されると監沔北軍事・南中郎将に遷り襄陽に鎮した。石勒の将郭敬が騎兵で撫を攻めると撫は守り切れず、配下を率いて武昌へ逃れ、罪に問われ免官された。まもなく振威将軍・豫章太守に遷り、後に毌丘奧に代わって監巴東諸軍事・益州刺史・假節となり将軍号は従前通りとされた。まもなく征虜将軍に進み督甯州諸軍事を加えられた。永和初年、桓温の蜀征伐に際し撫は督梁州之漢中・巴西・梓潼・陰平四郡軍事に進み彭模に鎮した。撫は蜀の残賊隗文・鄧定らを撃破し偽尚書僕射王誓・平南将軍王潤を斬り、その功により平西将軍に遷った。
  • 隗文・鄧定らは再び反し範賢の子の範賁を帝に立てた。かつて範賢は李雄の国師であり左道(邪術)で百姓を惑わし信奉者が多かったため、範賁もまた一万の衆を擁するに至った。撫は龍驤将軍朱燾とともにこれを撃破して斬り、その功により建城縣公に爵を進めた。征西督護の蕭敬文が反乱を起こし征虜将軍楊謹を殺し涪城に拠って自ら益州牧を称した際、桓温は督護鄧遐を撫の討伐に助けさせたが陥落させられず退いた。温はさらに梁州刺史司馬勳らに撫と合流させて討たせた。敬文は固守し2月から8月まで持ちこたえたが、ついに出て降伏し、撫はこれを斬り首を京師に伝えた。升平年間、鎮西将軍に進んだ。州にあること30余年、興寧三年(365年)に卒し、征西将軍を追贈され諡は襄とされた。子の楚が跡を継いだ。

  • 周楚、字は元孫。家を起こして征西軍事に参与し、父に従って蜀に入り鷹揚将軍・犍為太守に任じられた。父の死後、楚は監梁・益二州・仮節となり建城公の爵を襲った。代々梁・益にあり大いに人心を得ていた。当時、梁州刺史司馬勳が反した際、楚は朱序とともにこれを討平し冠軍将軍に進んだ。太和年間、蜀の盗賊李金銀、廣漢の妖賊李弘がともに衆を集めて寇をなし、李勢の子と偽称して「聖道王」を称し年号を鳳皇とした。また隴西人の李高は李雄の子と詐称し涪城を破った。梁州刺史楊亮が守りを失った際、楚は子の周詩を遣わしてこれを平定した。この年、楚は卒し諡は定とされた。子の瓊が跡を継いだ。
  • 瓊は勁烈で将略に優れ、数郡を歴任し楊亮に代わって梁州刺史・建武将軍となり西戎校尉を領した。かつて氐人の竇沖が降伏を求めた際、朝廷は東羌校尉とした。後に沖が反し漢中へ入ろうとした際、安定人皇甫釗、京兆人周勳らが沖を迎え入れようと謀ったが、瓊は密かにこれを知り釗・勳らを捕らえて斬った。まもなく卒した。子の虓が跡を継いだ。

  • 周虓、字は孟威。若くして節操があった。州の召しに応じて祭酒となり、後に西夷校尉・梓潼太守に至った。甯康初年、苻堅の将楊安が梓潼を侵した際、虓は涪城を固守し、歩騎数千を遣わして母と妻を漢水経由で江陵へ送ろうとしたが、堅の将朱肜に阻まれ捕らえられ、虓はついに楊安に降った。堅は虓を尚書郎にしようとしたが、虓は「国の厚恩を蒙り今日に至った。ただ老母を捕らえられ節を失ったのはこの事による。母子ともに助かったのは秦の恩恵だが、公侯の貴位であっても栄誉とは思わない、まして郎官の任などなおさらだ」と述べ、堅は諦めた。それ以来、堅に会うたびに虓は箕踞の姿勢で座り堅を「氐賊」と呼んだ。堅は不快に思った。元会(元日の朝賀)の際、威儀が非常に整っていたため、堅は虓に「晉の元会はこれに及ぶか」と尋ねると、虓は袖をまくり声を励まして「戎狄が集まる様は犬羊の群れのようなもの、どうして天子に比べられようか」と答えた。呂光が西域遠征に赴く際、堅が餞別の宴を開き20万の戎兵と数百里に及ぶ旗を見せて虓に「朕の軍勢はどうか」と問うと、虓は「戎狄が興って以来、これほどのものはなかった」と答えた。堅の側近は虓の不遜を訴え除くよう請うたが、堅は虓をますます厚遇した。
  • 虓は密かに桓沖に書を送り賊の奸計を告げた。太元三年(378年)、虓は密かに漢中へ逃れようとしたが堅に追われ捕らえられた。後に堅の兄の子の苻苞と堅を襲う謀を企てたが事が漏れ、堅は虓を引見して事情を問うと、虓は「昔、荊軻・豫讓は燕・智伯の微臣に過ぎなかったが、それでも身に漆を塗り炭を呑んで忠節を忘れなかった。ましてこの虓は代々晉の恩を受けている、どうして忘れられようか。生きては晉の臣、死しては晉の鬼となる、それ以上何を問う必要があろうか」と答えた。堅は「今これを殺せば、かえってその名を成すことになる」と述べ、鞭打った上で太原へ流した。後に堅は再び順陽・魏興を陥落させ二郡の太守を捕らえたが、いずれも節を曲げなかった。堅は「周孟威(虓)は前に屈せず、丁彥遠は後に己を潔くし、吉祖沖は食を絶って死んだ。みな忠臣である」と嘆じた。
  • 虓はついに病により太原で卒した。子の周興がその柩を迎えに行き、冠軍将軍謝玄は自ら哭礼に臨み、上疏して「善を旌し功を表し義を崇め節を明らかにするのは、声教を振揚し美をのちの世に伝えるためです。故西夷校尉・梓潼太守周虓は心に忠烈を執り賊の朝廷にあっても節を厲まし、ついに荒裔の禍にかかり泉壌に葬られました。私は常にその志を悲しみ、蘇武の賢すらこれに勝るものはないと考えます。先に并州へ告げ虓の柩を求めその家族も探させたところ、数千里を負い担ってようやく到着しました。すぐに資を送りその旧郷へ帰しました。伏して願わくは、聖朝がその志を追想しその卓絶の節を表彰し、霜を負う(節義を守る)志が地に落ちぬようにされれば、存亡ともに慰められ恩恵は幽明を隔てず及ぶことでしょう」と述べた。孝武帝は詔して「虓は志を厲まし貞亮、古の烈士に恥じない。まだ脱出を果たせぬうちに命を落とした。義節を顕彰するのは国の典礼である。龍驤将軍・益州刺史を追贈し、賻銭二十万、布百匹を賜う」とし、さらにその家族にも施しを与えた。

  • 周光は若くして父の風があった。11歳の時、王敦に会うと、敦は「貴郡(梁州)にはまだ将がいない、誰を用いるべきか」と尋ねた。光は「明公(敦)が下問を恥じないのであれば、これ以上の人材はいないと存じます」と答えた。敦は笑って甯遠将軍・尋陽太守とした。敦が挙兵すると光は千余人を率いて赴いた。到着した時には敦は既に死んでいたが光はそれを知らず敦に会おうとした。王応(敦の甥)はこれを秘して語らず病と称した。光は退いて「今、私は遠路来たのに王公に会えない、王公は死んだのだろうか」と述べ、急いで兄の撫に会って「王公は既に死んでいる、兄はなぜ錢鳳とともに賊をなすのか」と言うと、皆愕然とした。その夜、兵は散り錢鳳は逃走し閶廬洲に至ったが光がこれを捕らえ、朝廷に赴いて罪を贖い、それゆえ処分を免れた。蘇峻の乱の際、温嶠に従って力戦し功があった。峻の乱平定後、曲江男の爵を賜り官のまま卒した。

仲孫

  • 光の子の仲孫は興甯初年、督寧州軍事・振武将軍・甯州刺史となった。州にあって貪欲暴虐であり人々は苦しんだ。桓温は梁・益に賊が多く周氏が代々威名を有することから、仲孫を再び監益・豫・梁州之三郡とした。甯康初年、楊安が蜀を侵した際、仲孫は守りを失い免官された。後に光禄勲に召され卒した。
  • かつて陶侃が微賤であった頃、父の喪に服し葬ろうとした際、家中で忽然と牛を見失った。ある老人に出会い「前の丘で牛が山の窪地に眠っているのを見た、その地に葬れば位は人臣を極めるだろう」と言われ、さらに別の山を指して「ここもこれに次ぐ、代々二千石(郡太守クラス)の家となるだろう」と言い、言い終えると姿を消した。侃は牛を探し当ててその場所に葬り、指し示された別の山は周訪に譲った。訪の父が死んだ際にはそこに葬られ、果たして刺史となり寧・益で名を成し、訪以下三代にわたり益州で41年間治め、その言葉の通りとなった。

史論

  • 史臣は言う。仁義に定まった形はなく、これを実践すれば君子となり、これに背けば小人となる。周子隱(処)は放縦不羈の性質を持ち凶蛟猛獣に比せられ郷里に害を及ぼしていたが、ついに己に克ち精進を励み、朝に道を聞けば夕べに改め、命を軽んじ義を重んじ国に殉じ身を捧げた、志節の士と言えよう。宣佩(玘)はこの忠勇を奮い、しばしば妖乱を平らげ威略は本朝随一で功績は王府に記された。しかしその後朝廷の宰相と怨みを結び密かに異図を企て、憤りのあまり難を顧みなかった、これは度量が狭かったと言うべきである。ついに憤恚のうちに死んだのは惜しむべきことではないか。劄・筵らは俊逸の才を持ち豪傑を自任していたが、初めは朝廷に疑われ最後は権臣に咎められた、強者が弱者に劣る結果となったことにはまさに証があると言えよう。劄は防備の任を委ねられながら門を開いて賊を迎え入れ、順を去って逆に付いた、それは実際にあったことである。後に凶徒の手を借りたとはいえ、罪人はその報いを得たと言えよう。朝廷が栄誉ある贈位を議したのは、僭越ではなかったか。晉の刑政が衰えたのはこうした道理によるものである。周訪は文武を兼ね備え、要衝を鎮める任にあり、湘・羅を平定し江・漢を清め、子孫にまで謀を伝え、節旄を杖して西蜀はその威風を仰ぎ、中興の名将と推された、功成り名立った、まことに美事ではないか。孟威(虓)は敵の朝廷に捕らわれながらも偽主に抗して言葉を曲げなかった、図史に記された事跡もこれに勝るものはあるまい。

  • 賛に言う。平西(撫)は果敢で、始めは邪であったが終わりは正であった。勇は残賊を除くに足り、忠は命を捧げるに至った。宣佩(玘)はその功に励み、三たび江東を定めた。劄はたとえ敵を招いたとはいえ、筵は実に忠を懐いていた。尋陽(訪)は武を経営し、旄を擁し斧を持った。子と言い孫と言い、代々規矩を重ねた。孟威(虓)は節を抗して、心に旧主を思い続けた。