出自と『思游賦』
- 摯虞、字は仲洽、京兆長安の人。父摯模は魏の太僕卿。虞は若くして皇甫謐に学び、才学は広く著述を怠らなかった。郡の主簿に檄せられた。虞はかつて死生・富貴は天命によるとし、義を履み信を思うことが福を招き、これに背けば禍を速めると考えたが、道は長く世は短く禍福が入り乱れる現実に悩む人々の姿を見て、まず世に遇われない者の苦しみを描き、遠く天地を巡る空想の旅を通じてその惑いを極め、最後に正義に立ち返らせ、神明の応報や否泰の運が人智を超えることを示して天命に従うべきことを明らかにする『思游賦』を著した。賦の内容は、軒轅(黄帝)の後裔と自らを位置づけ、天地を巡り、庖犧・姫文(文王)に道を問い、四霊や諸神を従え、太昊・王母・碧雞・北叟などの神仙的存在を訪ね、天帝に見え、吉凶の理を稽え、最後に主(作者)が「性命を澄まし一を守るべきで、飄々と遊行する必要はない」と悟って旅を終える、という空想的・寓意的な長大な韻文である。
挙賢良と対策
- 夏侯湛ら十七人と共に賢良に挙げられ、対策で下第となり中郎に拝された。武帝は「賢良の答策を見て、言うところは様々だが皆王義に明るく政道に益がある」として、諸賢良方正に直言を求める詔を東堂で発した(日食・水旱の災、時宜に合わぬ法令、文武の遺賢の推挙、負俗の謗りを受けた者の洗雪について問うもの)。虞は「聖明の政は始めを原ねて終わりを要め、本を体して末を正す、法度が人に当たれば天下の理は彼方に及ぶ、日月の眚・水旱の災があれば省みて己に反り、耳目の聡明・大官大職の人選・賞罰黜陟の当否・遺賢の有無を求めるべきだ」との趣旨で答え、期運の自然は人事の及ぶところではないが誠を尽くせば天も応えるとした。太子舎人に抜擢され、聞喜令に任じられた。
『太康頌』
- 天下泰平の世を頌える『太康頌』を武帝に奉り晋の徳を讃えた。要旨は、漢末の乱世から蜀漢・呉が割拠した経緯を述べ、宣帝(司馬懿)の遼隧での武功、朝鮮平定、韓・貊征服、文帝(司馬昭)の梁・益州平定、そして今上(武帝)による呉の平定と天下統一を頌え、四海が礼に和し楽しみ、武備を収めて文治に転じた盛世を讃美するものであった。
尚書郎、古尺論争
- 母の喪により解職。のち尚書郎に召された。将作大匠陳勰が地中から古尺を発掘し、尚書は「今の尺は古尺より長い、古尺を正しいものとすべき」と奏上した。潘岳は慣用が久しいとして改正に反対したが、虞はこれに反駁し、「今の尺は古尺よりほぼ半寸も長く、楽府に用いれば律呂が合わず、史官が用いれば暦象の占いが失われ、医署が用いれば経穴の位置が狂う」と、音律・暦学・医術の三点で不都合が生じることを指摘し、唐虞の制や孔子の教えを引いて「今、両尺を並用するのは同一とは言えず、誤りを知りながら行うのは謹むとは言えない」として、古尺への統一を主張した。
『族姓昭穆』
- 虞は漢末の喪乱で家系の伝承が多く失われ、子孫すら先祖の名を語れない状況を憂い、『族姓昭穆』十巻を撰して上疏し進呈した。品定めにおいて法に違うことがあったとして司徒に弾劾されたが、詔により赦された。
太廟増位問題
- 太廟が新造された際、位を一等増す詔が出されたが、担当者が詔旨を取り違えたとして取り消されそうになった。虞は上表し、「昔の聖明は千乗の国を惜しまずとも桐葉の信を惜しんだ、至尊の命を重んじ万国への誠を通すためだ。先の赦書で普く位を一等増すとした詔が遠近に広まり喜ばれたのに、今にわかに取り消せば民の信を損なう」と諫め、詔はこれに従い取り消しを撤回した。
『新礼』論議と諸礼制の議論
- 元康中、呉王(司馬晏)の友に遷った。荀顗が『新礼』を撰する際、虞にその得失を討論させてから施行させた。元皇后(楊芷)崩御の際、杜預は「諒暗の制は上古よりのもので、皇太子は国家との一体性から服喪を省き葬儀後に釈服すべき」と上奏し、虞に書を送った。虞は「唐虞・殷周それぞれの呼称は同じ喪の異なる呼び方に過ぎず、周以来これを喪服という、今、帝は日々万機に当たり太子も監撫の重責にあるからには礼を奪ってでも葬儀を終えれば服を除くのが理に適う、古に無理に付会して論争するには及ばない」と答えた。皇太孫(愍懐太子の子)尚が薨じた際、有司は「御服は齊衰期とすべき」と奏したが、帝は博士に議論させ、虞は「太孫は君を体して重責を継いだのであり、年齢によるのではない」と論じ、これに従った。虞はまた玉輅・両社の制についても議論した(詳細は『輿服志』参照)。
秘書監から太常卿へ、洛陽陥落
- 後に秘書監、衛尉卿を歴任し、恵帝の長安行幸に従った。東軍(洛陽側の軍)が迎えに来た際、百官は逃げ散り、虞は鄠・杜の間を流浪し南山に入り、糧が尽きて橡の実を拾って食べた。後に洛陽に帰り、光禄勲・太常卿を歴任した。懐帝が自ら郊祀を行った際、元康以来久しく廃れていた郊祀の礼儀を虞が旧典に照らして整え、法物が整然と揃った。洛陽が荒乱に陥り盗賊が横行し人が人を食う惨状の中、虞は元来清貧であったため、ついに餓えて死んだ。
著作
- 虞は『文章志』四巻を撰し、『三輔決録』に注解を施し、また古の文章を類聚区分して三十巻とした『流別集』を撰し、各篇に論評を付した。その辞理は当を得ており世に重んじられた。
逸話
- 虞は天文観測に優れ、友人に「今、天下はまさに乱れようとしている、避難の地はただ涼州のみであろう」と語った。士人を愛し、推薦の表があれば常にその文を書いた。東平の太叔広は機知に富み弁が立ったが、広が談論すれば虞は言葉に詰まり、虞が筆を執れば広は答えられず、互いに笑い合ったという逸話が世に伝わった。