晉書卷五十 列傳第二十 秦秀

出自と経歴

  • 秦秀、字は玄良、新興雲中の人。父の秦朗は魏の驍騎将軍。秀は若くして学行に篤く忠直で知られた。咸寧年間、博士となった。何曾が卒すると、諡を礼官に議させることとなり、秀は次のように議した。
  • 要旨:亡き太宰何曾は世族の子孫でありながら若くして高潔厳粛で朝廷に登用され、親に仕えては孝養の誉れがあり官にあっては尹模を弾劾するなど臣子の道理を実践した面もあったが、その性質は驕奢で規範を守らなかった。『詩経』の「南山の岩々たる、赫々たる師尹(宰相)、人みな汝を瞻る」を引き、その徳行が高くなければならぬことを説き、『春秋左伝』の「倹は徳の恭、侈は悪の大なり」を引く。晉が天下を受けて以来、勤労・清廉・慎み深さが求められる中、曾は二代にわたり寵を受け累代にわたり顕栄を誇り、耳順の年(60歳)で三公の位を兼ね大国の租を食み保傅の貴と司徒の権を握り、二子はいずれも金貂(高官の飾り)を帯び帝の側近に列した。古の賢人に比べれば責任は重いはずなのに、驕奢が過度で名は天下に知れ渡り、行いは道に外れながら非常な高位を享受した。これは輔相としての適格を欠くのみならず、近年これほどの汚辱・弾劾を父子ともに受けながら恩赦を蒙った宰相はいないと断じる。
  • 周公が二代(夏・殷の末)の衰退を悼み諡の制を作り終わりを慎んだ故事、曾子が易簀(正しい敷物に替える)して死んだ故事、斉の史官が権臣にも「君を弑した」と記録し続けた故事を引き、皇代の官がこれに倣わないわけにはいかないとし、『管子』の「礼義廉恥は四維(国の四本柱)、四維が張られなければ国は滅ぶ」を引いて、宰相が生前も死後も咎められないなら帝室に正しい刑罰はないことになると論じ、諡法の「名と実がそぐわぬを繆、乱に頼って恣にするを醜」に照らし「繆醜公」と諡すべきと主張した。
  • 当時この議は採用されなかったが、聞く者は恐れを抱いたという。
  • 秀は生来讒佞を憎み仇のように嫌い、賈充を軽んじていた。呉討伐の役で充が大都督となったと聞き、親しい者に「充は文書処理程度の小才しかないのに討伐の大任に就くとは、私は師を送るのに哭泣するしかない」と語った。ある人が「昔、蹇叔は秦軍の敗北を見通して子を送る際に哭泣した、しかし今は呉主(孫皓)が無道で自ら滅ぶ形勢にあり、諸軍が国境を進めば戦わずして潰えるだろう、あなたが哭泣するのは不明であるだけでなく赦されぬ罪にもなりかねない」と諫め、秀はこれを思いとどまった。孫皓が王濬に降伏した際、充はまだこれを知らず呉はまだ平定できないとして撤兵を上表しており、この上表が捷報と同時に届いたため、朝野は充が地位の高さに反して見識が低いとして、秀の言葉こそ的を射ていたと評した。

秦秀の諫言――賈充と王濬をめぐって

  • 充が薨じた際、秀は次のように議した。
  • 要旨:充は自らの宗族を差し置いて異姓を後嗣とし、これは礼に背き情に溺れ大倫を乱すものである。『春秋』に「莒人が鄫を滅ぼした」と記された故事(鄫が外孫の莒公子を後嗣に立てた例)を引き、聖人も外孫の親愛を知らぬわけではないが、義から言えば父子の関係にはならないと説く。詔書には太宰(何曾)ほどの功、封の始祖ゆえに後嗣がない場合、自らの血統に限るとの定めがあり、外孫を後嗣とするのは元功顕徳の者でなければ許されないとし、諡法の「昏乱して紀度(規律)を乱すを荒」に照らし「荒公」と諡すべきと論じた。
  • この議も採用されなかった。
  • 王濬は呉平定の勲功がありながら王渾に讒毀された。帝はこれを取り上げなかったが賞罰を明らかにせず、濬を輔国大将軍としたため天下はこれを怨んだ。秀は上言した。
  • 要旨:晉建国以来、輔国の号は旧恩によって授けられるのが常であったが、これでは王濬が無功の時に九列の顕位を受け、功を立てた後にかえって寵臣並みの辱めを受けることになる。天下の誰もが失望するだろう。かつて蜀(小)と呉(大)を平定した際、蜀平定後の二将はいずれも三事(三公級)に昇進したのに、濬が今回帰還して降格されるのでは天下が惑うのも当然である。呉がまだ滅びていなかった頃、三祖(司馬懿・師・昭)の神武をもってしても屈することがあり、孫皓の虚名だけでも中華を震撼させ、少しの侵攻があるだけで朝廷全体が恐怖したものだった。もし天子の百万の軍を借りて呉を平定し国家と兄弟の交わりを結ぶ者があれば、朝野は喜んで受け入れたはずだ。今、濬は蜀漢の兵を率いてわずか数旬で呉を平定した、たとえ呉の財宝すべてを与えたとしてもそれは元来濬の分に属さぬものだったのに、なぜその功に対して細かく計算するのか、と訴える。
  • のち劉暾らと齊王攸の一件を共に議して帝の意に逆らい除名された。まもなく再び博士に起用された。秀は生来剛直で人と衝突することが多かった。博士として前後20年近く務め、在官のまま卒去した。

史評

  • 史臣曰く:齊献王(司馬攸)は明徳と近親の身をもって国を治め道を論じ、多くの功績を挙げ人倫の秩序を正した。しかし武帝は奸諂の邪謀を容れ、後継への遠慮の名目のもとに、ついに攸を東方の青土(斉の地)の君主・藩国の牧とした。遠近の人々は驚き歎き、朝野は失望した。曹志らは教義を体し儒門の規範に則り、身を挺して国のために忠を尽くした。ゆえに朝廷で正論を唱え帝の逆鱗に触れても、身は一時屈しても道は弘まったと言えよう。庾氏は代々清廉の徳を伝え世に称えられ、汝潁の地に奇士が多いというのはまさにこのことである。謀甫(庾純)は日頃佞邪を憎んでいたが、発言は酔いに乗じたもので、鼠を投げつけようとして器を憚る(大局を考えて小事を控える)ような慎重さに欠けていたのではないか、その言動を軽々しく評すべきではない。人の財を盗めば盗人と言われるが、子玄(郭象)が向秀の誉れを騙し取り善行を奪ったのも、盗みと言わずして何であろうか。
  • 賛に曰く:魏氏の城を守る者、済北王(曹志)はその名を知られた。潁川に多士あり、庾峻もまた英才を飛翔させた。長岑(庾瑉)は義に殉じ、祭酒(庾敳)は栄達を後にした。謀甫(庾純)は三爵(酒)の礼を誤り、酔乱の咎めを受けた。郭象は善行を奪い、秦秀はただ悪を癉(にく)んだ。旉(庾旉)は嘉謀を献じ、あわや鼎鑊(極刑)に趨くところであった。