出自と人物
- 謝鯤、字は幼輿、陳国陽夏の人。祖父の謝纘は典農中郎将、父の謝衡は儒学の素養で知られ国子祭酒に至った。鯤は若くして知られ、通達で高い見識を持ち威儀を飾らず、『老子』『易』を好み歌をよくし琴を弾き、王衍・嵇紹もその才を認めた。
- 永興年間、長沙王司馬乂が入って輔政した際、鯤を憎む者が鯤が逃亡を企てていると讒言し、乂が鞭打とうとすると鯤は衣を脱いで罰を受け入れ、動じる様子もなかった。赦された後も喜ぶ様子もなかった。太傅東海王司馬越がその名声を聞いて掾に招いたが、放縦な生き方ゆえまもなく家僮が官の稈草を盗んだ罪で除名された。当時の名士王玄・阮脩らはみな、鯤が宰府に登ったばかりで処罰を受けたことを歎き惜しんだが、鯤自身は清らかに歌い琴を弾いて意に介さず、その恬淡さに人々は感服した。隣家の高氏の娘が美しく、鯤が言い寄ると娘は機(はた)の梭を投げつけて鯤の前歯を2本折った。世人はこれを「放縦にも限度があるべきだ、幼輿は前歯を折られた」と語ったが、鯤はこれを聞いても悠然と「それでも歌をやめる理由にはならない」と嘯いた。越はまもなく再び鯤を招き参軍事に転じた。当時多事であったため鯤は病と称して職を辞し、豫章に難を避けた。かつて旅の途中で人殺しの噂がある無人の亭に泊まった際、明け方に黄衣の者が鯤の名を呼んで戸を開けさせようとしたが、鯤は少しも恐れず窓から手を差し出して掴むと、その腕が折れ、見ると鹿の脚であった。追って血痕をたどり鹿を捕らえたところ、以後その亭に怪異はなくなったという。
謝鯤と王敦
- 左将軍王敦が長史に招き、杜弢討伐の功で咸亭侯に封じられた。母の喪により去職、喪明けて敦の大将軍長史に遷った。王澄が敦の席にあった際、鯤との会話に飽きることなく「謝長史とこそ語るに値する」と歎じ敦を一顧だにしなかったといい、鯤が人に慕われた様がうかがえる。鯤は功名を追わず節操を誇示せず、身の処し方は可否の中間にあり、自らは穢れた身のように振る舞いつつも高潔さを損なうことはなかった。敦に不臣の兆しが朝野に明らかになっても、鯤は正道で匡そうとせず、悠々と身を寄せ政事に構わず、時に応じて諷諫する程度にとどまった。畢卓・王尼・阮放・羊曼・桓彝・阮孚らと常に痛飲したが、敦はその高い名望ゆえ鯤を賓客として礼遇した。
- かつて都へ使いした際、東宮にあった明帝に会い、大いに親しまれた。「世評は君を庾亮と並べるが、自らどう思うか」と問われると「朝堂に端座し百官の模範となる点では鯤は亮に及ばないが、山水の間に身を置く趣では鯤の方が勝ると思う」と答えた。温嶠は鯤の子謝尚に「尊父君は見識が広いだけでなく、その洞察の深さは諸葛瑾が孫権を諭したのにも劣らない」と語った。
- 王敦が反逆を企てようとした際、鯤に「劉隗は奸邪で社稷を危うくしている、君側の悪を除き主君を助けたいがどうか」と問うと、鯤は「隗は確かに禍の発端だが、しょせん城狐社鼠(権力の陰に隠れる小悪)にすぎません」と答えた。敦は「君は凡才ゆえ大義を理解できないのだ」と怒った。鯤を豫章太守に出しながらも留めて赴任させず、その才望を利用して東下に同行を強いた。敦が石頭城に至って「もはや盛徳の事(王者を輔ける美挙)を為すことはできまい」と嘆くと、鯤は「なぜそう仰るのですか、今から先、日々忘れ日々改めればよいのです」と答えた。かつて敦は「周伯仁(周顗)を尚書令に、戴若思(戴淵)を僕射にしよう」と語っていたが、都に着くと再び「近頃の人心はどうか」と尋ねた。鯤は「明公の挙兵は社稷を大いに存続させる意図でしょうが、世の噂は明公の高い志を理解していません。周顗・戴若思は南北の人望を集める人物です、彼らを用いれば人心も落ち着きましょう」と答えた。その日のうちに敦は兵を遣わして周顗・戴若思を捕らえたが、鯤はこれを知らず、敦は「君は迂闊だな、二人はもはや折り合わぬので既に捕らえた」と怒った。鯤は周顗と親しかったため愕然として、自らのことのように喪失感を覚えた。参軍の王嶠が周顗誅殺を強く諫めたため敦は激怒し嶠の斬首を命じたが、誰も口を挟めない中、鯤は「明公が大事を挙げるにあたり誰一人殺さずにいたのに、嶠が諫言により逆鱗に触れたからと血祭りに上げるのは行き過ぎではないか」と諫め、敦はこれを聞き入れた。
晩年
- 敦は忠賢の士(周顗・戴淵)を殺害した後、病と称して朝見せず武昌に戻ろうとした。鯤は「明公は社稷を大いに存続させ不世の勲を建てましたが、天下の心はまだ十分に通じていません。もし天子に朝見し君臣が打ち解ければ万民の心も服するでしょう。衆望を頼みに謙譲を尽くして主上に仕えれば、その功は斉桓公の匡輔にも並び名は千載に垂れましょう」と諭した。敦が「変事が起きないと保証できるか」と問うと、鯤は「私が近頃拝謁したところ、主上は席を側にして明公にお会いになるのを待ち望んでおられ、宮中は穏やかです、心配は無用でしょう。明公が入朝されるなら私が随行いたします」と答えたが、敦は「たとえ君ら数百人を殺そうと、時勢に何の損もない」と激しい言葉を発し、結局朝見せずに去った。当時朝廷の名望ある者が次々に害された中、人々はこれを憂えたが、鯤は道理に従い平常心を保ち、時に応じて正論を進言した。敦はこれを用いず内心不快であった。軍が戻ると鯤は豫章太守として赴任し、清廉厳粛な政を行い百姓に愛された。まもなく在官のまま卒去、時に43歳。敦の死後、太常を追贈され諡は康。子の尚が跡を嗣ぎ、別に伝がある。