晉書卷四十六 列傳第十六 李毅

李毅

  • 重と李毅はともに吏部郎を務めた。当時尚書であった王戎は、重を清らかな見識で、毅を該博で機知に富むとして評価し、二人の気質は異なりながらもそれぞれ要職に処し、王戎は識見の応じ方によって二人を用い、それぞれにふさわしい処遇を与えた。毅、字は茂彦。旧史はその事跡を欠く。
  • 当時は内官が重んじられ外官が軽んじられ、官の階級も繁多であったため、重がこれを議論した内容は『百官志』に見える。また上疏して、山林に隠れ寵を避ける士を先王が許したのは高義を重んじたからであるとし、先帝(武帝)が風俗の弊を憂い質朴に立ち返らせようと諮問し隠逸を求めた例(咸寧2年に太子中庶子として安定の皇甫謐を、咸寧4年に博士として南安の朱沖を、太康元年に太子庶子として再び朱沖を徴したが、いずれも病により応じなかった)を挙げ、朱沖が老いてなお志気盛んで道に耽ることいよいよ新たであると述べ、聖恩をもって速やかに顕彰すべきと説いたが、当時朝廷は乱れており実現しなかった。
  • 出でて行討虜護軍・平陽太守となり、徳化を崇び学校を興し、篤行の者を表彰し賢能を抜擢し、清廉で私欲なく自ら身を正して部下を率い、在職3年で4県を弾劾罷免した。弟の嶷が没すると官を辞した。
  • 永康の初め、趙王倫に用いられて相国左司馬となったが、憂懼のあまり病を得て卒した。時に48歳。家は貧しく邸宅も狭小で殯斂の場所もなかったため、詔により典客署で喪を営ませた。散騎常侍を追贈され、諡は成。子の李式は美名があり官は侍中に至り、咸和の初めに卒した。

史論

  • 史臣曰く:劉頌は若くして朝廷に出仕して以来、誠を尽くして国に奉じ、広く封建策を陳べてその機宜に深く適い、刑名を詳しく弁じて政体の要を極めた。文章は華美さに欠けるが理は肝要を得ている。前漢の賈誼に比べて遜色なく、後漢の郎顗にも劣らない。元康年間、賊臣(賈后一派)が権を専らにし朝廷が戦慄する中、頌は忠鯁を曲げず、無実の張華の死を哭し、趙王倫のみだりな九錫を拒んだ。古の遺直(正直の遺風)と言うべきである。ただ私的な感情から劉友を平らかに扱わなかった一件は、憎みながらも善を知るということには反するかもしれない。李重は制度の因革の理を説き田産の制限に反駁し、その言辞は事に適い見るべきものがある。銓衡(人事)に意を注ぎ隠逸に心を寄せた点は、王戎(浚沖)の識会の評価も虚しくないと言えよう。
  • 賛に曰く:劉頌は剛直、その義は言葉に表れた。下より上を摩す(諫言する)者、頌はまさにそれであった。李重は清雅、その志に私心はなかった。賢を推し滞りを抜く、佳言はここにあり。ああ両哲、邦家の基たり。