晉書卷四十四 列傳第十四 溫羨

出自と評価

  • 溫羨、字は長卿、太原祁の人、漢の護羌校尉溫序の後裔。祖の恢は魏の揚州刺史。父の恭は済南太守。兄弟六人がそろって世に名を知られ「六龍」と号された。羨は若くして朗寤と称され、斉王攸に掾として辟され尚書郎に遷った。恵帝即位に及び豫州刺史を拝し散騎常侍として入り尚書に累進した。斉王冏の輔政に及び、羨が攸の故吏であることから特に親しまれ吏部尚書に転じた。

張華復官の論議と晩年

  • 先に張華が誅された際、冏はその官爵の回復を議したが、非とする論者もあった。羨は「天子以下は諫争の臣にそれぞれ格差があり罪を一人に帰すべきではない、晏子は『己のために死ぬのでなければ誰がその任を負えようか』と言った、裏克が二人の庶子を殺した例、陳乞が陽生を立てた例、漢朝が諸呂を誅した例はすべて数年後に事を立てている、事主が存在する時に数月のうちに志を行った例はない、式乾の会で張華だけが諫めたが、上宰(大臣たち)が和せず風を承けて善を助けず彼の指麾に従うことは難しい、況して今は皇后が子を害したが内難であり礼にも関わらない、后は帝に体を斉しくし尊は皇極に同じ、罪は枉子にありこの事は逆にあたらず義として討つべきではない、今華が枉子の后を廃せなかったことをもって趙盾の弑君の賊を討たなかった罪と同一視し貶責するのは義において通じない」と駁論した。華の爵位はついに復された。
  • その後成都王穎討伐に従い勲功があり大陵県公に封ぜられ食邑千八百戸を得た。冀州刺史として出て後将軍を加えられた。范陽王虓が許昌で敗れた際、自ら冀州を治める立場にあったが羨は避けた。恵帝の長安行幸に際し羨は中書令とされたが就かなかった。帝が洛陽に還るに及び中書監に召され散騎常侍を加えられたが拝任前に帝は崩じた。懐帝即位に及び左光禄大夫・開府に遷り司徒を領した。論者は皆その昇進が速すぎると評した。在位いくばくもなく病により卒去、司徒を贈られ諡は元。三子は祗・允・裕。
  • 祗、字は敬齊は太傅西曹掾。允、字は敬咸は太子舎人。裕、字は敬嗣は武安長公主を娶り左光禄大夫に至った。

史論

史臣曰く:晋氏中朝は累世の資を承け兼併の業を建て、衣冠は盛んで英彦は林のようだった。ここに挙げた諸公はある者は雅望をもって台槐(三公)にあり、ある者は高名をもって保傅に居り、一時の秀でなければどうしてここに至れようか。惜しむらくは論道の場で口を緘し兼済の日に独善したことで、良図鯁議については語るに多く足りない。しかし己を退けて賢を進める点で林叔(鄭袤)は推譲の美を、自家を刑して国に及ぼす点で宣伯(李胤)は協恭孝の規を示した。子若(盧欽)は儒素を基とし偉容(華表)は苦節で誉れを流した、その慶が後世に垂れるのも当然であろう。石鑒は公亮によって昇り温羨は明寤によって顕れ、危乱に遭ってもその名を落とさなかった。歳寒にして松柏の後凋を見るとは、この人々を言うのだろう。

贊に曰く:譲なるかな密陵(鄭袤)、孝なるかな広陸(李胤)。欽(盧欽)はすでに博雅、表(華表)もまた貞粛。鑒(石鑒)の功績は克く宣り、温(溫羨)の声は載ち穆やかなり。同じく玉振の如く鏘り、蘭鬱の如く芬を争う。