出自と若年期
- 張華、字は茂先、范陽方城の人。父の張平は魏の漁陽郡守。華は幼くして父を失い貧しく、自ら羊を飼って暮らしたが、同郡の盧欽が見て器量を認めた。同郷の劉放もその才を奇として娘を娶らせた。
- 華は学問に優れ辞藻は温麗で、多方面に通じ、図緯・方伎の書もことごとく詳しく読んだ。若い頃から慎み深く、些細な事にも礼を守った。義に赴くことに勇敢で、困窮する者への周旋に篤かった。器量・見識は広く、当時の人はその真価を測りかねた。まだ無名の頃、『鷦鷯賦』を著して自らの心境を託した。
『鷦鷯賦』
- その要旨は、造化の多様さの中で微小な鷦鷯という鳥を借り、羽毛も肉も人に利用されず、猛禽にも脅かされず、林の中を自在に飛び巣も一枝あれば足り、求めるものも少なく、天性のままに生きることに患いがないと説く。
- 対して雕・鶡・鵠・鷺・鶤雞・孔翠・晨鳧・帰雁など美しい羽と豊かな肉を持つ鳥はかえって禍を招き、罪もなく斃れる。蒼鷹は猛々しさゆえに繋がれ、鸚鵡は賢さゆえに籠に入れられ、本性を曲げて飼い慣らされる。海鳥の爰居や条支の巨爵のような体の大きな鳥はかえって禍を招きやすいとし、万物は大小さまざまで、鷦鷯の巣は蚊のまつげほど小さく大鵬は天の隅を覆うほど大きいが、上にも下にも及ばぬ点があり、大小の優劣は一概に言えないと結ぶ。
出仕と伐呉への貢献
- 陳留の阮籍はこれを見て「王佐の才だ」と嘆じ、これにより名声が上がった。郡守の鮮于嗣は華を太常博士に推薦した。盧欽が文帝に取り次ぎ、河南尹丞に転じたが赴任前に佐著作郎に任じられた。まもなく長史に遷り中書郎を兼ねた。朝議の上奏の多くが採用され、まもなく正式に任命された。晋の受禅後、黄門侍郎を拝し関内侯に封じられた。
- 華は記憶力に優れ天下のことを手のひらを指すように詳しく知っていた。武帝が漢の宮室制度や建章宮の千門万戸について尋ねると、華は流れるように答え、聞く者は疲れを忘れ、地面に図を描いて示すと周囲が注目した。帝はこれを異とし、当時の人は子産(鄭の名臣)に比した。数年後、中書令を拝し、のち散騎常侍を加えられた。母の喪に遭い哀しみが礼を過ぎたため、中詔で励まされ職務に戻された。
- かつて帝がひそかに羊祜と呉討伐を謀った際、群臣の多くは不可としたが、華だけがこの計を賛成した。のち羊祜が重病になると、帝は華を遣わして討伐の計を尋ねさせた(詳細は『羊祜伝』)。大挙して呉を討つに際し、華は度支尚書として運漕を計算し廟算を決定した。諸軍が進んでも成果が上がらない時期に賈充らは華を誅して天下に謝すべきと上奏したが、帝は「これは私の意志で、華はただ私に同調しただけだ」と答えた。大臣の多くが軽々な進軍を不可としたが華だけは必勝を確信して堅持した。呉滅亡後、詔により華は広武県侯に進封され邑一万戸を増され、子一人が亭侯(邑千五百戸)に封じられ絹一万匹を賜った。
幽州での治績と朝廷内の軋轢
- 華は当代随一の名声を得て人々の推服を受け、晋の史書・儀礼・憲章の編纂に多く携わり多くの取捨を加えた。当時の詔誥はすべて華が起草し、声望はますます高まり台輔(三公)への期待があった。しかし荀勗は大族を誇り帝の厚い信任を頼みに華を憎み、常に隙をうかがって外鎮に出そうとした。
- 帝が「後事を託せる者は誰か」と問うと、華は「明徳至親では斉王攸に及ぶ者はいない」と答えたが、これは帝の意にそぐわず、わずかに旨に逆らったことから讒言が行われるようになり、華は持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北将軍として外に出された。
- 華は新旧の民を撫育し、戎夏がこれになついた。東夷の馬韓・新彌など四千里余り離れ二十余国が歴代通交がなかったが、皆使者を遣わし朝貢した。遠夷が服し四境に憂いなく、豊作が続き士馬も強盛となった。
中央召還と再度の疎外
- 朝議は華を召還して宰相にし、儀同を進めようとした。かつて華が徴士の馮恢を帝に非難したことがあり、馮紞はその弟で帝の寵愛を受けていた。紞は帝に「鍾会の禍の原因は太祖(司馬懿)にあった」と論じ、帝が咎めると「善き御者は轡の緩急を知り、善き政治家は官の抑揚を心得るもの。仲由は積極的すぎて抑えられ、冉求は消極的すぎて進められた。漢高祖は八王を寵愛しすぎて滅ぼされ、光武帝は諸将を抑えて全うさせた。太祖は鍾会の才を過大に評価し重用しすぎたため、会は自らの功が賞に値しないと考え驕り高ぶり、ついに反逆を企てた。もし小才を記録するにとどめ礼で節し権勢で抑えていれば乱心は生じなかった」と論じ、帝も同意した。紞は「陛下が既にこの理を認められたなら、氷のように積み重なる兆しを警戒し、鍾会のような者が再び覆没を招かぬようにすべき」と続け、「今そのような者はいるか」と問われると「東方朔の言に『言うは易し』とあり、『易』にも『臣は密ならざれば身を失う』とある」とはぐらかし、人払いの上で「陛下の謀臣で天下に大功を著した者、方鎮を握り軍馬の任にある者は皆陛下の聖慮の内にあります」とだけ答えた。帝は黙り込んだ。まもなく華は太常に召還されたが、太廟の棟が折れたことで免官された。帝の在世中は結局列侯として朝見するにとどまった。
恵帝朝、太后廃黜の議論
- 恵帝即位後、華は太子少傅となり、王戎・裴楷・和嶠と共に徳望ゆえに楊駿に忌まれ朝政に関わらなかった。楊駿誅殺後、皇太后を廃そうとする議が朝堂で開かれ、議者の多くは風向きを見て『春秋』が文姜を絶ったことを引き、太后も宗廟から自ら絶ったのだから廃黜すべきだと唱えた。
- 華だけは「夫婦の道は父も子から得られず子も父から得られないもので、皇太后は先帝に対して罪を犯した者ではない。今その親族に連座させ聖世で母としないのは、漢が趙太后を廃して孝成后とした故事に倣い、太后の号を貶して武皇后と称し、別宮に居らせて全うすることが望ましい」と論じたが、聞き入れられず太后は庶人に落とされた。
楚王瑋の乱鎮圧
- 楚王瑋が密詔を受けて太宰の汝南王亮・太保の衛瓘らを殺し、内外の兵が動揺し朝廷が大いに恐れ策が立たなかった。華は帝に「瑋は詔を偽って二公を害したが、将士は突然のことで国家の意志と信じて従っただけだ。今、騶虞幡を遣わし外軍に戒厳を解かせれば、必ず風になびくように収まる」と進言し、帝がこれに従うと瑋の軍は果たして崩れた。瑋誅殺後、華はその首謀の功により右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・中書監、金章紫綬を拝したが、開府は固辞した。
賈謐・賈后との関係
- 賈謐は賈后と共謀し、華が庶族出身で儒雅な策略家であり、上を脅かす嫌疑もなく人望も厚いことから朝綱を委ね政事を諮ろうとした。帝が裴頠に相談すると、頠は元来華を重んじており強く賛同した。華は忠を尽くし朝政を補佐し、暗主・虐后の朝にあっても天下は平穏であり、これは華の功であった。
- 華は賈后一族の勢力の強大化を恐れ、『女史箴』を著して諷諫した。賈后は凶妒であったが華を敬重した。のちその功勲を論じられ壮武郡公に進封されたが、華は十余度辞退し、詔で諭されてようやく受けた。数年後、下邳王晃に代わり司空となり著作も領した。
劉卞との対話、湣懐太子廃立問題
- 賈后が太子の廃立を謀った際、左衛率の劉卞は太子から厚く信頼され宴には必ず陪席していた。賈謐の驕慢な態度に太子は恨みを隠さず、謐もこれを快く思っていなかった。卞は賈后の陰謀を華に問うたが、華は「聞いていない」と答えた。卞は自らの卑賤の出から華に取り立てられた恩義を語り「士は知己に感じて尽言するのに、あなたは私を疑うのか」と迫った。
- 華が「もしそのような謀があるとして、君はどうするつもりか」と問うと、卞は「東宮には俊才が林立し、四率の精兵一万がある。あなたが宰相の地位にあり命令一下、皇太子が朝入して録尚書事となり、賈后を金墉城に廃するのは、黄門二人の力で足りる」と答えた。
- 華は「今上(恵帝)が在位し太子は人の子である。私自身が阿衡(伊尹)のような命を受けたわけでもないのに軽々にこれを行えば、君父を無視し天下に不孝を示すことになる。たとえ成功しても罪を免れず、権勢ある一族が朝廷に満ちる中で安泰でいられようか」と答え、実行しなかった。
- 帝が式乾殿で群臣に太子の手書を示した際、誰も何も言えなかった中、華だけが「これは国の大禍です。漢武帝以来、正嫡を廃するたびに乱に至りました。しかも国家はまだ日が浅く、陛下にはよくお考えいただきたい」と諫めた。尚書左僕射の裴頠は書写の経緯を検証すべきだと提案し、詐偽の疑いを指摘した。賈后は太子自筆の啓事十余紙を出させたが、誰も異を唱える者はなく、議論は日が傾くまで決せず、后は華らの意志が固いと見て太子を庶人にすることを乞い、帝はこれを許可した。
趙王倫との対立
- かつて趙王倫が鎮西将軍として関中を乱し、氐羌が反乱を起こすと、梁王肜に代えられた。ある人が華に「趙王は貪欲で孫秀を信用し至る所で乱を起こしている。梁王に秀を斬らせ趙王の勢力を半減させ関右への謝意を示せば良いのではないか」と説き、華がこれに従うと肜も承諾したが、秀の友人の辛冉が「氐羌の反乱は秀のせいではない」と肜に言い、秀は死を免れた。
- 倫が都に戻ると賈后に媚び、録尚書事、さらに尚書令を求めたが、華は裴頠と共に頑として認めず、これにより恨まれ倫・秀は華を仇のように憎んだ。武庫が火災に遭った際、華はこれに乗じた変事を恐れて兵を配して固守してから消火したが、歴代の宝物や漢高祖が蛇を斬った剣・王莽の首・孔子の履物などがことごとく焼失した。この時、剣が屋根を突き破って飛び去るのを見た者があったが、行方は分からなかった。
非業の死
- かつて華の封地・壮武郡で桑が柏に変わる異変があり、識者は不吉と見た。また邸宅や監省にたびたび妖異があり、末子の韙は中台星が裂けたことを理由に華に引退を勧めたが、華は従わず「天道は玄遠、ただ徳を修めて応じるのみ。静かに待ち天命に従うのが良い」と答えた。
- 倫・秀が賈后を廃そうとした際、秀は司馬雅を遣わし夜に華に「社稷が危うい、趙王は公と共に朝廷を匡す覇者の事業を行いたい」と告げさせた。華は秀らが必ず簒奪を成すと見て拒んだ。雅は怒って「刃が首に迫っているのにその言い草か」と言い捨てて出て行った。
- 華がある日昼寝中、屋根が壊れる夢を見て目覚め不吉に思った。その夜に事変が起こり、偽って詔と称して華を召し、裴頠と共に捕らえられた。華が死に臨み張林に「あなたは忠臣を害するのか」と言うと、林は詔を称して「あなたは宰相として天下の事を任されながら、太子廃立に節を守って死ぬこともしなかったのはなぜか」と詰問した。華は「式乾殿での議論で私の諫言は残っている、諫めなかったわけではない」と答えたが、林が「諫めても聞かれなければなぜ位を去らなかったのか」と重ねると答えられなかった。
- まもなく使者が「詔により公を斬る」と告げると、華は「私は先帝の老臣、忠心は変わらない。死を惜しむのではなく、王室の難を懸念するのだ、禍は測り知れない」と述べ、殿前の馬道の南で殺害され、三族を夷された。朝野で悲しまぬ者はなかった。享年六十九。
人物・逸話(博物志等)
- 華は人物を好み、倦むことなく人材を引き立て、貧しく身分の低い者にも一つの善行があれば感嘆して評判を広めた。書籍を愛し、死の日、家には余財がなく文史の書だけが箱に満ちていた。引っ越しの際、書物を三十台の車に積んだという。秘書監の摯虞が官書を編纂する際も、皆華の蔵書を頼って校訂した。天下の稀な珍書は皆華のもとにあり、博物洽聞は世に並ぶ者がなかった。
- 恵帝の時、三丈もある鳥の羽を得た者が華に見せると、華は「これは海鳧の羽だ。現れれば天下が乱れる」と語った。陸機がかつて魚の塩漬け(鮓)を華に贈った折、居合わせた客の前で華は器を開けて「これは龍の肉だ」と言い、皆信じなかったが「苦酒で洗えば分かる」と言うと五色の光が起こった。陸機が贈り主に問うと、園の茅積の下から得た白魚で肉質が特異であったため作ったものだったという。
- 武庫が厳重に封鎖されていたのに雉の鳴き声がしたことがあり、華は「蛇が化して雉になったのだ」と言い、開けると果たして雉の傍らに蛇の脱皮した殻があった。呉郡の臨平で岸が崩れて石鼓が出たが、叩いても音がしなかった。帝が華に問うと「蜀の桐材で魚の形に彫って叩けば鳴る」と答え、そのとおりにすると音は数里に響いた。
- 呉が滅びる前、斗牛の間に紫気が常に見られ、道術者は呉がなお強盛で図るべきでないとしたが、華だけは違うと考えた。呉平定後、紫気はますます明るくなった。華は緯象に通じた豫章の雷煥を招き、人払いをして「共に天文を探り将来の吉凶を知ろう」と言い、楼に登って観測させると、煥は「斗牛の間に異気がある」と述べ、これは宝剣の精気が天に徹しているのだと答えた。華は自らかつて占いで六十を過ぎ三公の位に上れば宝剣を佩びると言われたことを思い出し、剣の在り処を尋ねると豊城にあるとされ、華は煥を豊城令に任じた。
- 煥は獄舎の基礎を四丈余り掘り、石函を得てその中から双剣(龍泉・太阿)を得た。その夜、斗牛の異気は消えた。煥は南昌西山の土で剣を拭くと光芒が輝き、一剣を華に送り一剣を自ら佩びた。ある人が「両方得たのに一つしか送らないとは、張公を欺くのでは」と問うと、煥は「朝廷はまもなく乱れ張公は禍を受けるだろう。この剣は徐君の墓の樹に掛けられる運命にある。霊異の物はいずれ化して去り、永く人に服従しない」と答えた。
- 華はこの剣を得て大切にし常に座の傍らに置いた。南昌の土は華陰の赤土に及ばないとして、書簡で干将の剣であること、莫邪の剣がまだ見つからないことを煥に伝え、華陰の土一斤を送ると、煥はそれで剣を拭き、いっそう精妙な輝きを得た。
- 華の死後、剣の行方は分からなくなった。煥の没後、子の華(同名)が州従事となり、剣を帯びて延平津を通った際、剣が突然腰から躍り出て水に落ち、探させたが見つからず、代わりに数丈の龍が二匹、絡み合って現れ、探索者は恐れて戻った。まもなく光が水を照らし波が沸き立って剣は失われた。子の華は「先君(雷煥)の化して去るという言葉、張公の合一するという論、これがその証か」と嘆じた。華の博物ぶりはこの類が多く、詳しくは記しきれない。
- のち倫・秀が誅殺され、斉王冏が輔政すると、摯虞は冏に書簡を送り、華の没後に中書省で見つかった、帝が輔政を託せる者を尋ねた際の華の答え(「明徳至親では先王〈斉王攸〉に及ぶ者はいない、社稷の鎮として留めるべき」)を紹介し、その忠良の言は幽冥の中で信を得、没後にこそ明らかになったと述べ、議者が湣懐太子の事件で華が節を守って争わなかったことを責める向きに対し、晏嬰が崔杼の乱で死ななかった例、季札が呉の宗臣として逆順の理を争わなかった例を挙げ、理を尽くしても施す術がない場合は聖人の教えも責めないとした。
- 冏はさらに上奏し、孫秀の逆乱で佐命の功臣が滅ぼされたこと、張華・裴頠が誅せられ、解系・解結も共に害され、欧陽建らが無実の罪で死んだことなど、功臣の子孫がなお顕彰されていない状況を指摘し、群官による議論を求めた。議者の見解は分かれたが多くはその無実を訴え、壮武国臣の竺道は長沙王に華の爵位回復を求め続けた。
死後の名誉回復
- 太安二年、詔が下り、司空・壮武公の張華が忠貞を尽くし朝政を助けた功、封建を固辞し続けた誠意、その死が奸逆の企てに巻き込まれた冤罪であったことを述べ、侍中・中書監・司空・公・広武侯の官爵と没収された財物・印綬符策を復し、使者を遣わして弔祭した。
陸機兄弟との交誼
- かつて陸機兄弟は気位が高く、呉の名家の出として洛陽に入っても中国の人士を推さなかったが、華に一度会うと旧知のように敬い、師に対するような礼を尽くした。華の誅殺後、陸機は誄を作り、また『詠徳賦』を著してこれを悼んだ。
- 華は『博物志』十篇のほか多くの文章を著し、世に行われた。二子は禕・韙。
禕・韙(附伝)
- 禕、字は彦仲、学を好み謙虚で父の風格があり散騎常侍を歴任。韙は儒学に通じ天文にも明るく散騎侍郎を務めた。二人は同時に殺害された。禕の子・輿、字は公安、張華の爵を継いだ。江南への避難後、丞相掾・太子舎人を拝命した。