清史紀事本末資政院の開設(開設資政院)

立憲準備の一環として設置された議会の前身機関・資政院の開設から閉院までの経緯を描く。宣統元年(1909)の院章施行と開院に始まり、議事運営の混乱や政府による議決軽視といった欠陥を抱えつつも、宣統3年(1911)の辛亥革命に際し皇族内閣廃止・袁世凱の総理大臣公挙など重要な役割を果たすに至る約3年間。

年表(3件)

末帝宣統元年(1909年)

  • 秋七月、資政院章程を頒布した。光緒32年の政治考察5大臣帰国以来編まれた官制草案(52条)に始まり、翌年の「資政院設置」の詔を経て、この年に65条・附則2条の院章が確定・施行された。ただし各国議会の通例や当初の趣旨とは大きく異なる内容を含んでいたという。

宣統二年(1910年)

  • 夏四月、8月20日の資政院召集と欽選議員名簿を布告した。皇族・王公・世爵、満漢世爵、外藩王公世爵、宗室覚羅、各部院官、碩学通儒など各層から議員を選出した(原文に多数の人名が列挙されるが要約に留める)。
  • 秋八月、修律大臣沈家本を資政院副総裁に任命した(当初は貝子溥倫・大学士孫家鼐が総裁、景星・俞廉三ら数名が開設事務を担当したが、曹鴻勲の病没等により交代した)。9月1日の開院に際し摂政王が親臨し訓辞を述べた(資政院は上下両院の基礎、立憲政体の精神と位置付けた)。しかし開院初日から議事運営の混乱が相次いだ。議事日程外の議題に大半の時間が費やされたこと、議員間の議論のかみ合わなさ、モンゴル文字の投票用紙を巡る通訳の不在で場が紛糾したことなど、複数の逸話が伝わる。
  • 冬十二月、会期を延長した末、資政院は閉会した。編者は諸外国議会との比較で運営の欠陥を七点にわたり批判している。会期が短く休会が多いこと、議事回数・時間が少なく審議が粗略であること、欽選・民選議員が党派的に対立していること、政府が資政院の議決をほとんど無視していること、多くの議案が未審議・未処理のまま放置されたこと、軍機大臣弾劾案を巡り議決が朝令暮改であったこと、借款・予算・院章改正などの重要議案が審議に付されなかったことである。

宣統三年(1911年)

  • 春二月、大学士世続を資政院総裁、侍郎李家駒を副総裁に任命した。
  • 夏四月、第二次常会を召集。資政院が借款・予算審議のための臨時会開催を求めたが却下された。
  • 六月、院章を改訂し頒布した。
  • 秋九月、礼親王世鐸が代理で開院式に臨んだ。資政院は郵伝大臣盛宣懐の違法な権限濫用を弾劾し革職に追い込んだ。資政院は皇族内閣の暫行章程廃止と親貴不任用を求めて認められ、憲法協賛権も獲得した。憲法信条の頒布と太廟での宣誓を求めて実現。革命党人の政党化とその登用を求めて実現。山東の紳商・学界代表による請願八か条を審議し可決。憲法信条に基づき内閣総理大臣を公挙し、袁世凱が就任した。院章の再改訂も上奏し許可された。
  • 冬十月、断髪の詔を求めて実現。陽暦採用を議決し、頒布に至った。
  • 十二月、李家駒が開缺となり、許鼎霖が総裁に就任した。