清史紀事本末光復軍の挫折(光復軍之頓挫)
光復会の徐錫麟が安徽巡警学堂の卒業式で巡撫恩銘を狙撃・殺害するも、学生を率いた抵抗の末に捕らえられ、無残な私刑を受けて処刑された。連座して紹興大通学堂の秋瑾も密告により捕縛され、証拠不十分のまま斬首される。光緒三十三年、安徽・浙江での光復会の蜂起計画が相次いで頓挫した顛末を描く。
年表(2件)
- 光緒三十三年(1907年)夏五月・徐錫麟の蜂起徐錫麟が安徽巡撫恩銘を射殺するも捕らえられ処刑
- 六月・秋瑾の処刑浙江巡撫が秋瑾を大通学堂で捕らえ処刑
光緒三十三年(1907年)夏五月・徐錫麟の蜂起
- 安徽巡撫恩銘が道員徐錫麟に射殺される。徐錫麟は浙江山陰の人で、大志を抱き権謀に長けた人物。科挙を見限り浙江師範学堂を経て教育者として活動、その後ドイツ・日本に留学し革命思想を深めた。帰国後は捐納で道員となり安徽巡撫恩銘の信任を得て陸軍小学堂・巡警学堂の要職に就き、その間に陳伯平・馬宗漢と光復会を組織し、安慶の陸軍小学・巡警学堂から紹興の大通学堂など各校に革命思想を浸透させていった。
- 上海で同志が逮捕され名簿が発覚したことから、両江総督端方が恩銘に厳重な取り締まりを指示。徐錫麟は発覚を恐れ、巡警学堂の卒業式(本来の予定より前倒しされた)に乗じ、恩銘以下皖省要人を一挙に殺害する計画を立てたが、宴席の段取り変更により炸薬による一網打尽の計画は破綻。已むを得ず徐錫麟は演説の後、恩銘に向け拳銃を発射して重傷を負わせた。恩銘は西洋医の開腹手術も及ばず絶命した。
- 徐錫麟は学生を率いて軍械所を占拠し抵抗するも兵に包囲され、陳伯平は戦死、馬宗漢は捕縛、徐錫麟自身も変装して逃走を図るも捕らえられた。取り調べでは、恩銘個人への私的な恩義と「排満は天下の公憤」という大義を峻別する論理で自らの行動を正当化し、清朝打倒・満漢分離の革命思想を堂々と述べ、供述書には「革命は誰にでもできる、立憲は程度が及ばぬ」といった革命論を残した。同志を庇い、無関係の学生の連座を強く拒んだ。
- 恩銘の側近らは張汶祥の故事(馬新貽暗殺事件)に倣い剖心の私刑を主張し、馮煦は反対するも結局斬首後に心臓を抉り出す処置がとられ、遺骸は無残な扱いを受けた。徐錫麟は刑に臨み従容としており、「功名富貴は本意ではない、この死に悔いはない」と述べたという。馬宗漢も後日処刑された。
六月・秋瑾の処刑
- 浙江巡撫張曽敭が紹興大通女学校校長秋瑾を捕らえ処刑。秋瑾は日本留学経験を持ち、革命運動・女権運動に尽力し、徐錫麟の光復会にも参加していた。徐錫麟の事件を機に密告(私怨のあった郷紳胡道南から知府貴福へ)を受け、大通学堂が急襲され、秋瑾以下多数が逮捕された。拷問にもかかわらず秋瑾は罪を認めず、「秋雨秋風愁殺人」の七字のみを書き残した。武器の物証がないまま、身辺から発見された拳銃を理由に処刑が強行され、郡城軒亭口で斬首された。享年33。
- この事件により多数の関係者が連座し、罰金・投獄・学校閉鎖などの被害が広がった。事件を主導した知府貴福・巡撫張曽敭はその後左遷・転任を重ね、世論の非難を浴びた。密告者の胡道南は後に殺害され、廵防営統領李益智も広東で焼死した。
- 秋瑾の遺骸は当初葬られなかったが、後に徐寄塵・呉芝瑛ら女性志士が西湖畔に「鑑湖女俠秋瑾之墓」を築いた。翌年、御史常徽が墓の破壊と関係者の処罰を上奏したが、世論の反発を恐れて実行されず、代わりに密かに親族による改葬が図られた。