清史紀事本末チベット・インド条約の改訂(改訂藏印條約)
イギリスがインド支配後にシッキム経由でチベットへ進出、光緒十六年の蔵印条約でシッキムの英領化を清に認めさせ、通商条約で亜東を開港した。光緒三十年には榮赫鵬率いる英軍がチベットに侵攻しラサを占領してチベットに条約を強制、清朝は光緒三十二年に唐紹儀を交渉に当たらせ藏印正約でこれを追認した。編者はチベットが事実上「中英共同保護国」と化したと嘆く。
年表(4件)
- 光緒十六年(1890年)春二月升泰と英が蔵印条約でシッキムの英領化等を承認
- 光緒十九年(1893年)冬十月蔵印通商条約で亜東を開港し税関を設置
- 光緒三十年(1904年)秋八月英軍がチベットに侵攻しラサ占領、十款条約を強制
- 光緒三十二年(1906年)夏四月唐紹儀と英が藏印正約でチベットの現状を追認
光緒十六年(1890年)春二月
- 駐蔵大臣升泰と英国印度総督ランズダウンがカルカッタで蔵印条約八款に調印。イギリスがインド支配後にチベット方面へ進出、まずシッキム・ブータン・ネパールを保護国化し、シッキムがイギリスに接近したことに反発したチベットが光緒十四年にシッキムへ出兵。イギリスは応戦し、清朝はこれを制止するべく駐藏大臣文碩に撤兵を求めたが文碩は抗議し更迭され、後任の升泰がイギリスと交渉して条約を成立させた。条約は、蔵哲(チベット・シッキム)国境の画定、シッキムのイギリス属地化承認、印蔵通商路の開設などを規定した。
光緒十九年(1893年)冬十月
- 何長栄・赫政と英国政務司ポールがダージリンで蔵印通商・交渉・遊牧条約九款を締結。亜東(ヤトン)の開港、税関設置(総税務司赫徳が管轄)、五年間の免税などが定められたが、国境標識設置をめぐりイギリス側の不満が残り、後の侵攻の遠因となった。
光緒三十年(1904年)秋八月
- 唐紹儀を三品京堂としてチベット問題処理に派遣。日露戦争中の露の南下阻止と引き換えに、イギリスの榮赫鵬(フランシス・ヤングハズバンド)大佐率いる遠征隊がチベットへ侵攻。チベット軍との交戦(緇納・臺巴謨阿湖・嘉維山峽・江孜など各地)で連戦連敗し、駐藏大臣有泰は消極的な対応に終始した。イギリス軍はラサに入城、ダライ・ラマは逃亡。榮赫鵬は有泰の無力を突き、チベット代表に十款の条約(国境画定、亜東・江孜・噶大克の開港、賠償金50万ポンド、春丕への駐兵、外国勢力排除条項など)を強制的に受諾させた。列国(露・独・米・伊)の抗議もあり、清朝は改めて全権を派遣することとし、唐紹儀を正式に交渉担当とした。
光緒三十二年(1906年)夏四月
- 外務部侍郎唐紹儀と英使サトウが北京で藏印正約六款に調印。前年の英藏条約(榮赫鵬・ダライ・ラマ間の条約)を附約として承認しつつ、以下を規定:
- 光緒三十年の英藏条約を附約として承認
- イギリスはチベットの併合・内政干渉をせず、清もまた他国のチベットへの干渉を認めない
- 英藏条約第九款第四節の権利は清国のみが享受でき他国には及ばない(開港場での電信敷設権を除く)
- 光緒十六・十九年の蔵印条約の未抵触部分は引き続き有効
- 中英両文の条約文は英文を正文とする
- 三か月以内にロンドンで批准書交換
史論(編者曰)
- 光緒十八年、イギリスの探検家ボワーがチベットから帰国して「清のチベット統治は欧州の植民地統治法そのものだ」と評したという。しかし後に実行が伴わず、チベット人が外国と勝手に交渉する事態を招き、英藏条約・中英続訂藏印条約によってチベットはイギリスの干渉を受けるに至った。編者はこれを嘆じ、チベットが事実上「中英共同保護国」と化した現状を「嗚呼西藏、嗚呼西藏主国」と痛惜する。