清史紀事本末日露戦争(日俄之戰)
ロシアが義和団の乱に乗じ東三省を占領し撤兵条約を無視して増兵、日露交渉が決裂して開戦した。清国領内が戦場となりながら清朝は局外中立を守るほかなく、日本が旅順・奉天・日本海海戦で連勝、光緒三十一年のポーツマス条約で満洲返還・樺太分割等が定められた。編者は露清両国が小国日本に敗れた共通の敗因を専制政体・官吏腐敗などに見る。
年表(3件)
- 光緒二十九年(1903年)冬十二月日露開戦を受け清朝が局外中立を宣言
- 光緒三十年(1904年)日本軍が旅順・遼陽等で連勝、旅順露軍が降伏
- 光緒三十一年(1905年)奉天会戦・日本海海戦で日本が勝利、ポーツマス条約成立
光緒二十九年(1903年)冬十二月
- 日露開戦を受け清朝は局外中立を宣言。日清戦争後、ロシアは遼東を「還付」しつつ実質的に満洲を勢力圏化し、李鴻章の露訪問を機に露清密約が成立していた。義和団の乱に乗じロシアは東三省全域を軍事占領し、講和後も撤兵条約(六か月ごとの三段階撤兵)を無視して増兵。清朝は抗議もできず日本との協調に頼るのみで、日露交渉が決裂し開戦、戦場は清国・朝鮮領内となったが清は関与できず中立を守った。
光緒三十年(1904年)
- 春正月、日本軍が鴨緑江で露軍を破り九連城・鳳凰城を占領。ロシア極東総督アレクセーエフの楽観・準備不足が開戦前夜まで続き、シベリア鉄道の輸送力不足や馬賊被害もあってロシア軍の備えは不十分だった。
- 夏四月、日本軍が大孤山に上陸し金州を占領して旅順を包囲。ロシア軍の士気低迷が伝えられる中、日本の伊東祐亨連合艦隊司令長官らが着実に前進。
- 六月、日本軍が大石橋・営口・牛荘・析木城・海城などを占領。ロシア軍の苦しい抗戦(クロパトキンの負傷、スタケルベルクの自決など)が語られる。ロシア国内では革命運動やポーランド独立運動も激化。
- 秋八月、日本軍が遼陽で露軍を破り占領、沙河でも勝利。両軍数万の死傷者を出す大規模な激戦となった。
- 冬十一月、ロシアのバルチック艦隊東航を受け沿海各省に戒厳令。日露戦争は既に一年に及んでいた。
- 十二月、旅順の露軍守将が日本に降伏。日本軍の乃木希典大将が受降、武官878名・兵士23,491名が捕虜となった。
光緒三十一年(1905年)
- 春二月、日本軍が奉天会戦で露軍を破り奉天城を占領。ロシア軍30万余に対し日本軍が勝利、両軍合わせて十数万の死傷者を出した。
- 日本軍が鉄嶺・開原を連取。露軍司令官はクロパトキンからリネヴィッチに交代するも敗勢を覆せず。
- 夏四月、日本海海戦(対馬沖)でバルチック艦隊が壊滅。東郷平八郎連合艦隊司令長官の周到な待ち伏せ戦術により、ロシア艦隊は多数の主力艦を喪失し、司令官ロジェストヴェンスキーも捕虜となった。当時空前の大海戦と評された。
- 六月、日本軍が樺太(庫頁島)を攻略し全島を制圧。
- 秋八月、日露両国が米国ポーツマスで講和会議を開き、日本全権小村寿太郎・高平小五郎、露国全権ウィッテ・ローゼンの交渉により和約成立(要旨):
- 日本の朝鮮における優越権を承認
- 満洲からの両軍撤退
- 満洲を清国に返還
- 満洲の門戸開放
- 樺太の南北分割
- 遼東租借権の譲渡
- ハルビン以南の鉄道の割譲
- 満洲の鉄道の商業利用化
- ロシアが日本の俘虜扶養費として日本円1億5千万円を支払う(賠償金に代える)
- 日本に沿海漁業権を付与
- 開戦から講和まで29か月に及んだ。
史論(編者曰)
- ロシアと清はともに大国と称されながら、いずれも小国日本に大敗した。編者はその共通の敗因として、民族構成の複雑さ、専制政体、官吏の腐敗、軍紀の乱れ、文書主義の形式化、財政の混乱、君主が母后に制せられる構造、官職の売買などを挙げる。開戦前の備えの差(日本は言挙げせず十分に準備、露・清は宣戦後に慌てて準備)、開戦後の指揮の拙劣・士気の低さも共通しており、日清・日露両戦争の勝敗の帰趨は必然であったと結論づける。