清史紀事本末自立軍の失敗(自立軍之失敗)

唐才常率いる自立軍が長江流域で「勤王」を掲げ蜂起を計画するも、秦鼎彞の大通での先行蜂起が失敗して呼応を崩し、光緒二十六年の武漢蜂起も発覚して唐才常ら多数が処刑された。生き延びた沈藎も光緒二十九年に密告により捕らえられ獄死し、自立軍関係者が相次いで壊滅する顛末を描く。編者は「忠君愛国」を掲げたその実質を民族独立の志であったと評す。

年表(3件)

光緒二十六年(1900年)秋七月・大通蜂起

  • 秦鼎彞が安徽の大通で挙兵するも失敗し日本へ逃亡。鼎彞は湖南長沙の人で、日本留学から帰国後、康有為らの保皇会資金を得た唐才常・林圭らと連携し、大通の水師や安徽巡撫衛隊の管帯孫道毅を運動して蜂起を計画したが、密告により発覚。安徽巡撫王之春が戒厳を敷き、防軍の反撃を受けて鼎彞軍は敗走した。
  • 汪鎔が湖南での蜂起を謀るも発覚し自殺。鎔は安徽出身で白話報を創刊し民智開発に努めていたが、戊戌政変後の弾圧に憤慨し革命運動に投じた。長沙で同志を集めるも、実兄の密告により逮捕直前に服毒死した。

唐才常の武漢蜂起

  • 唐才常が湖北漢口で挙兵を計画するも発覚し処刑された。畢永年ら革命志士との連携の経緯、正気会・自立会の組織化、長江流域の同志網構築、自立軍の五軍編成(前軍・後軍・左軍・右軍・中軍)などの準備が語られる。大通の前軍が先行して失敗したため後続の呼応が得られず、蜂起は延期を重ねた末に二十七日夜に発覚・鎮圧された。唐才常・林圭・李炳寰・田邦璿ら多数が捕らえられ処刑された。
  • 唐才常は当初、湖広総督張之洞との連携(両湖独立宣言)を画策していたが、之洞は疑念を深め最終的に唐らを捕縛した。唐は獄中で「賸好頭顱酬故友、無眞面目見羣魔」の詩句を残した。
  • 林圭・李炳寰・田邦璿ら関係者の人物評、及び湖北・湖南で連座した多数の犠牲者(汪鎔・唐才中・蔡鍾浩など)についても記される。舒閏祥は「士は殺されても辱められず」と服毒自殺した。
  • 沈藎は新堤・崇陽・監利・臨湘・沅州・湘潭などで蜂起を試みるが、いずれも鎮圧され武昌へ逃れた。

光緒二十九年(1903年)夏六月

  • 沈藎が北京で捕らえられ、杖刑により獄死。沈藎は新堤の失敗後、天津・北京で活動を続け、聯軍将校に義和団首謀者の情報を提供して満洲貴族の摘発に関与した。また露清密約の内容を暴露し各国からの追及を招いた。内務府郎中慶寛・検討呉式釗の讒言により逮捕され、太后の命により竹鞭で四時間にわたり打たれた末、絞殺された。その死は国内外に衝撃を与え、上海での追悼会や各国の非難、英外相ランズダウンの議会発言にまで発展した。

史論(編者曰)

  • 自立軍は世に「勤王の師」と呼ばれ、会章に「忠君愛国」を掲げたため保皇派と見なされたが、序文には「異民族の支配に甘んじる」ことへの批判も滲んでいた。編者は、当時の中国では民権・変法論への理解が乏しく、唐才常はあえて「忠君愛国」の名を借りて天下を糾合しようとしたのであり、畢永年や章炳麟らはこれを批判したが唐は意に介さなかったと解する。林圭・秦鼎彞・汪鎔・沈藎ら軍中の俊才が容易に人に利用される器でなかったこと、後に漢民族光復を掲げた革命軍がこの自立軍の系譜から出たことを踏まえれば、唐才常らの真の志は民族独立にあったと編者は結論づける。