清史紀事本末義和団の乱と北京議定書(拳匪之亂及庚子和約)

義和団が「扶清滅洋」を掲げて京畿一帯で蜂起し、太后がこれを義勇軍として厚遇したことから各国への宣戦布告に至り、天津・北京が相次いで陥落、太后・帝は西安へ逃避した。光緒二十六年の講和交渉を経て、賠償金や首謀者処罰などを定めた講和大綱十二条の受諾までを描く。

年表(5件)

光緒二十六年(1900年)夏五月・義和団の台頭

  • 京畿一帯で義和団(元は梅花拳・金鍾罩、白蓮教の流れ)が活発化し、太后は剛毅・趙舒翹を良郷・涿州へ派遣し実情視察を命じた。義和団は「扶清滅洋」を掲げ、洋人・キリスト教徒・洋語や洋貨を使う者を敵視し容赦なく殺害。紅灯照という女性集団も活動した。山東巡撫毓賢は義和団を「義民」として擁護し、後任の袁世凱は徹底鎮圧するが、残党は直隷に流入。総督裕禄は放任し、鉄道・電線の破壊や教徒殺害が頻発した。剛毅・趙舒翹の視察後も朝廷の対応は曖昧なままだった。太后は義和団を義勇軍として編成し端郡王に統率させることを決め、拳民を宮中に招き入れて厚遇、都中に数万の拳民が集結し事態は収拾不能となった。

総理衙門の乗っ取りと開戦論

  • 端郡王載漪が総理各国事務衙門を管理、禮部尚書啓秀・工部侍郎溥興・内閣学士那桐らが同衙門大臣となる。載漪は各国への宣戦を主張、啓秀は宣戦の詔を準備した。
  • 甘粛提督董福祥の軍が入京し、義和団と結んで教会・市街を焼き討ち、大柵欄一帯で大火災が発生し数千戸が焼失。
  • 甘軍が日本公使館書記官杉山彬を永定門外で殺害。
  • 李秉衡が入京し攻撃的な戦略(翰林院からの地雷戦術など)を献策。
  • 太后は列国からの照会に激怒し、御前会議で開戦を決定。栄禄は公使館攻撃に強く反対したが容れられず、多くの大臣(許景澄・袁昶・立山・聯元ら)が慎重論を唱えるも載漪らに罵倒され、聯元は処刑寸前まで追い込まれた。太后は各国への宣戦を布告。
  • 英・露・独・仏・米・伊・墺・日の八国連合軍が大沽砲台を攻略。天津では英提督シーモアが北京を目指すも楊村で阻まれ引き返す。天津租界でも激しい攻防となる。
  • 各省への勤王軍動員命令に対し、両江総督劉坤一・山東巡撫袁世凱ら南方督撫は消極的で、劉坤一は「使館襲撃には協力しない」と明言。
  • ドイツ公使クリントが東単牌楼で満人兵に射殺される。政府は洋人殺害への懸賞金を出しており、これが一因となった。この事件を機に正式に各国へ宣戦布告。以降、義和団を利用した過激論(神兵・水攻め・皆殺し論など)が朝廷内に横溢した。
  • 各省に義和団招集を命令、山西巡撫毓賢は在山西の洋人を欺いて皆殺しにしたと報告し、太后から称賛される。栄禄は残虐行為を諫めるが太后は「洋人が我に政権返還を迫るゆえ已むを得ぬ」と応じる。
  • 載勛を歩軍統領に、載勛・剛毅に義和団統率を命令。公使館攻撃は二十日余り続くも陥落せず。
  • 両江総督劉坤一が上海の各国領事と「東南保護約款九条」を締結し、長江流域・上海租界の平和維持と相互不可侵を約す(両湖総督張之洞も協力)。これにより東南諸省は動乱から守られた。
  • 太后は一時公使館攻撃停止を命じるが(大阿哥が帝を罵倒した事件が契機)、裕禄からの「大勝」の虚偽電報を受けて再び攻撃再開を命じる。

六月・天津陥落

  • 天津が陥落。提督聶士成は奮戦するも塩素ガス砲(毒ガス弾、文明国戦争では禁止兵器)攻撃を受け戦死。
  • 太后は栄禄に「三表五餌」の故事(賈誼の言)を引いて外交手腕への自信を語る。
  • 李鴻章を直隸総督に任じ北上を命じるが、鴻章は政策転換なしには動けないと繰り返し辞退。

秋七月

  • 吏部侍郎許景澄・太常寺卿袁昶を処刑。両名は義和団鎮圧・首謀者処罰を繰り返し上奏していたが、李秉衡の讒言により「密諭を改ざんした」との濡れ衣を着せられ、太后の激怒により車裂きの刑(後に斬首に減刑)に処された。袁昶は刑場で堂々と抗弁し従容として死んだ。張蔭桓も新疆の配所で殺害される。
  • 太后は各国公使の天津への護送を命じ、公使館攻撃停止を布告。李鴻章を全権大臣とし、露・英・日への調停要請を命じるも列国の反応は芳しくなかった。
  • 楊村陥落、裕禄は敗走し自殺。
  • 李秉衡を欽差大臣として派遣するも麾下の軍は総崩れとなり、自身も服毒自殺。
  • 兵部尚書徐用儀・戸部尚書立山・内閣学士聯元が処刑される。いずれも和平派・穏健派であったため讒言により処刑された。
  • 聯軍が通州を占領。太后・帝は熱河(後に西安)への逃避を決意。
  • 聯軍が北京入城。太后・帝は農婦姿に変装して脱出、珍妃は太后の命により井戸に投げ込まれ死亡。逃避行には端郡王載漪・大阿哥溥儁ら多数が随行、沿道は逃避随行兵による略奪が横行した。北京陥落時、将軍延茂・祭酒王懿栄ら多くの官僚が殉死・自決した。
  • 太后は罪己詔を発し、太原への巡幸を宣言。

八月以降・講和交渉

  • 太后一行は大同・太原を経て西安に至る。奕劻を北京に戻し李鴻章と講和交渉に当たらせる。劉坤一・張之洞も交渉に加わる。
  • ロシア軍が斉斉哈爾を占領、黒龍江将軍寿山は自殺。東三省全域がロシアの実効支配下に入る。
  • 聯軍が山海関・北塘砲台を占領。
  • 閏月、義和団を扇動した諸臣(端郡王載漪・董福祥・荘親王載勛・剛毅の「四凶」ら)の処分が始まる。
  • ドイツ公使クリント・日本書記官杉山彬への弔慰措置。
  • ロシア軍が営口・遼陽・盛京を占領し東三省を制圧。
  • 聯軍が保定を占領し、義和団を支援した布政使廷雍らを処刑。
  • 剛毅が病没(聯軍からの引き渡し要求への恐怖から発病したとされる)。
  • 九月、太后一行が西安に到着し撫署に駐蹕。
  • さらに厳しい処罰が下る:載漪は爵位剥奪・宗人府監禁、載勛・溥静・載瀅も同様、毓賢は辺境流刑。
  • 冬十月、董福祥は罷免のうえ甘粛帰還を命じられる(聯軍の処刑要求は太后が拒否)。
  • 十二月、講和大綱十二条が成立(要旨):
  • ドイツ公使殺害への謝罪使節派遣と記念碑建立
  • 首謀者の厳罰(百余名の処刑・永久追放等)と冤罪犠牲者(許景澄ら)の名誉回復、被害地域での科挙停止
  • 日本書記官殺害への謝罪
  • 墓地損壊地への記念碑建立
  • 二年間の武器輸入禁止
  • 賠償金(関銀四億五千万両)
  • 公使館警護のための各国駐兵、界内への中国人居住禁止
  • 北京・海浜間交通路の確保、大沽砲台撤去
  • 各国による沿線駐兵
  • 排外を禁ずる布告の各地掲示
  • 総理各国事務衙門改組と謁見儀礼の変更
  • 太后は処罰の軽減を望んだが、張之洞の反対論も列国からは「二十年来の書生論」と一蹴され、最終的に大綱を受諾した。