清史紀事本末領土の喪失と軍港租借条約(疆域之喪失及軍港租借條約)
アヘン戦争後の道光二十二年から日露戦争後の光緒三十一年まで、清朝が列強に領土を割譲・租借し続けた60年余りの記録。香港・九龍・ウスリー江東岸・伊犂・マカオ・台湾・膠州湾・旅順大連・威海衛・広州湾・樺太南部など、条約ごとの喪失の経緯を並べる。
年表(14件)
- 道光二十二年(1842年)アヘン戦争敗北で南京条約により香港島をイギリスに割譲
- 咸豐八年(1858年)璦琿条約で黒龍江以北の東北地をロシアに割譲
- 咸豐十年(1860年)北京続増条約で九龍司を英に、沿海州をロシアに割譲
- 同治三年(1864年)塔城条約で新疆西北の額爾斉斯河下流一帯を喪失
- 同治八年(1869年)科布多界約で阿爾泰泊一帯をロシアに喪失
- 光緒八年(1882年)伊犂界約で伊犂河下流一帯をロシアに喪失
- 光緒十三年(1887年)北京条約でマカオをポルトガルに与えた
- 光緒十六年(1890年)蔵印条約でラダックをイギリスに譲った
- 光緒二十年(1894年)滇緬界約続議で雲南西方の広大な地を英に喪失
- 光緒二十一年(1895年)馬関条約で台湾・澎湖列島を日本に割譲
- 光緒二十三年(1897年)緬甸条約続議で孟卯全域等をイギリスに割譲
- 光緒二十四年(1898年)膠州湾・旅順大連・九龍半島・威海衛を各国に租借
- 光緒二十五年(1899年)広州湾をフランスに租借
- 光緒三十一年(1905年)ポーツマス条約で樺太南半分を日本に割譲
道光二十二年(1842年)
- 秋七月、アヘン戦争の敗戦を受け中英南京条約(江寧条約)第三款により、香港島をイギリスに割譲した。条文は、船舶修理・物資保管のため沿海の一地を与えるとし、香港島を大英国君主とその後継者に永久に統治させるとした。
咸豐八年(1858年)
- 夏四月、中露璦琿条約第一条により黒龍江省東北の沿辺地をロシアに割譲した。ロシアはネルチンスク・キャフタ条約以降も満足せず、東シベリア総督ムラヴィヨフの下で黒龍江を南下・植民し、太平天国の乱で国力が弱った清に迫って国境改定を強要、黒龍江将軍奕山とムラヴィヨフが璦琿城で会議し、黒龍江を国境と定めて東北数千里を失った。現在のロシア・アムール州にあたる。
咸豐十年(1860年)
- 秋九月、中英北京続増条約第六款で九龍司をイギリスに割譲。両広総督労崇光が仮に貸与していた九龍を、北京和約締結にあたり永久に英領香港に編入した。
- 冬十月、中露続約第一款で吉林省東方沿海地(ウスリー江東岸)をロシアに割譲。英仏連合軍の北京入城時に調停役を務めたロシア公使イグナチェフがその代償として要求し、ウスリー・スイフン両河以東の地を割かせた。ロシアはスイフン河口に軍港ウラジオストクを築いた。
同治三年(1864年)
- 秋九月、中露塔城条約が成立し、新疆西北の額爾斉斯河下流一帯(斎桑湖を含む)を喪失。光緒九年の国境画定でこの地は完全にロシア領(セミパラチンスク地方)となった。
同治八年(1869年)
- 春三月、中露科布多界約が成立し、阿爾泰泊一帯(科布多西北沿辺)を喪失。後にロシア・トムスク地方となった。
光緒八年(1882年)
- 秋七月、中露伊犂界約が成立し、伊犂河下流一帯(バルハシ湖・イシク・クル方面を含む)を喪失。新疆の回民反乱に乗じロシアが伊犂を占領していたが、天山南路平定後にホルゴス河以東は清に返還されたものの、境界画定の結果伊犂河下流域はロシア(セミレチエ地方)の手に落ちた。
光緒十三年(1887年)
- 冬十月、中葡北京条約第一・第二款によりマカオをポルトガルに与えた。マカオは明の嘉靖年間からポルトガル人が居住し地代を納めていたが、道光二十九年以降は未納となっていた。度重なる交渉の末、両広総督張之洞の建議もありポルトガルとアヘン税釐の徴収問題を機に条約を締結、慶親王奕劻・侍郎孫毓汶とポルトガル使節ロシャが五十四款の条約を結び、マカオの割譲を正式に認めた。
光緒十六年(1890年)
- 春二月、中英蔵印条約が成立し、ラダックをイギリスに譲った。西方シク教徒の侵攻以来紛争が続いていたが、藏印国境協定の交渉の過程でラダックは英領に帰した。
光緒二十年(1894年)
- 春正月、中英滇緬界約続議が成立し、雲南省西方の野人山以西南、龍川江・潞江下流域を喪失。イギリスがビルマ北境を探査し、清軍不在を確認して既成事実化を進め、八募(新街)・孟拱を放棄、清軍守備隊も撤退・外国人侵入を許した結果、大金沙江以西の広大な地がイギリスに帰した。
光緒二十一年(1895年)
- 夏四月、日清馬関条約第二款により台湾全島・澎湖列島を日本に割譲した。
光緒二十三年(1897年)
- 春正月、中英緬甸条約続議第二・第三款により孟卯(工隆)全域とナムカ付近の三角地帯を割譲・永租した。前年五月にフランスとの条約で江洪の地をフランスに譲った代償を求めるイギリスの抗議に応じたもの。
光緒二十四年(1898年)
- 春二月、中独膠澳租借条約が成立し膠州湾をドイツに租借。ロシア・フランスが遼東返還の代償を得る中、ドイツのみ得るところがなく不満を抱いていたところ、山東曹州の教案(宣教師殺害事件)を口実にドイツ艦隊が膠州湾を占領。提督章高元は不意を突かれて武装解除され、ドイツは99年租借・山東の鉄道鉱山利権を強要した。
- 三月、中露旅順大連条約が成立し旅順・大連湾をロシアに租借。ドイツの膠澳租借に対抗し、ロシア公使パブロフが同様の権利を要求、旅順・大連湾と付近水域を25年間租借、営口・鴨緑江間の鉄道敷設権も獲得した。
- 夏四月、中英九龍展拓香港界址専条によりイギリスが九龍半島を新たに租借。ドイツ・ロシアの租借に対抗し、英使ドクラは勢力均衡を口実に九龍対岸の拡張を要求、李鴻章の抗議も空しく99年租借で成立した。
- 五月、中英威海衛租借条約が成立し、威海衛をイギリスに租借。ロシアの旅順駐留に対抗する形で、日本軍撤退直後にイギリスが租借を得た。租借期限はロシアの旅順租借と同一とされた。
光緒二十五年(1899年)
- 冬十月、中法広州湾租借条約が成立し、広州湾と付近二島をフランスに租借。フランス人官吏殺害事件を口実にフランス軍が広州湾に進駐、清朝は抗議できず99年租借を認めた。
光緒三十一年(1905年)
- 秋七月、日露ポーツマス条約第五款によりロシアが樺太(庫頁島)南半分を日本に割譲。乾隆五十五年に清が失念して以来ロシアの実効支配下にあった樺太は、日露戦争の講和条約により北緯50度以南が日本領となった。