清史紀事本末属国の喪失(藩屬之喪失)

光緒五年(1879)の日本による琉球併合を皮切りに、越南のフランス保護国化、ビルマの英国による滅亡、朝鮮の日清戦争による独立、シャムの英仏保証など、清の周辺藩属国が次々と失われていく過程をまとめる。光緒五年から同二十年(1894)までの経緯。

年表(5件)

徳宗光緒五年(1879年CE)

  • 閏三月、日本が琉球を滅ぼし沖縄県とした。琉球は康熙二年以来清の冊封を受け三年に一度朝貢していたが、日本は咸豐年間から北部の島々を占拠し始め、同治十年の台湾遭難事件(琉球漂流民殺害事件)を機に琉球を自国の版図と主張、日本の歴史書を根拠に古くからの服属を唱えた。当時の駐京副使柳原前光はこの件で総署と論争を繰り返した。その後の台湾出兵(琉球人殺害への報復名目)で清が撫恤銀五十万両を支払い和議を結んだ際に、琉球の宗主権は実質的に日本へ移っていたが清政府は気づかなかった。光緒初年、英国の雲南案・仏国の越南進出・露国の伊犁占拠と外交案件が重なる中、日本は琉球王に朝貢停止を命じ、王は「久しく中国の藩封である」と抗して助けを求めたが、清は新疆問題で手一杯で顧みず、日本は軍艦を派遣して国王尚泰を捕らえ廃位、沖縄県として編入し尚泰を侯爵とした。

光緒七年(1881年CE)

  • 春二月、総理各国事務衙門に対し、琉球問題の日本との再交渉を命じた。前年、日本の竹添進一が李鴻章に対し「北島・中島は日本領、南島は清領」とする分割案と、通商条約への最恵国待遇追加を提案したが、鴻章は琉球問題と通商問題を混同する要求として厳しく拒否した。日本公使宍戸璣もたびたび決着を迫ったが、鴻章は伊犁交渉が未決着の間は交渉を引き延ばす方針をとり、伊犁条約成立後に総署に再交渉を命じた。宍戸は不満のまま帰国し、越南新約成立後、日本はこれを先例として琉球の領有を既成事実化した。

光緒九年(1883年CE)

  • 秋七月、越南(安南)がフランスと新約十三条を締結した。清の冊封国であった安南は咸豐・同治年間にフランスと度重なる戦争で領地を失い、事実上フランスの保護国と化していたが清はそれを知らなかった。光緒八年、フランスは通商保護を名目に河内・南定・河陽・広安・寧平などを次々占領し東京・順化の砲台も陥落させ、越南に東京割譲を含む新約十三条(第二条「以後越南はフランスの保護国とし、フランスの許可なく他国と交通しない」)を強いた。越南側からの報告で清はようやくこれを知った。

光緒十一年(1885年CE)

  • 夏四月、大学士直隷総督一等肅毅伯李鴻章がフランス公使と天津で講和し新約十款を締結した。越南をめぐる連年の戦争でフランス海軍は海南を奪い台湾を占拠、福州を襲って船廠を焼き、艦隊をほぼ壊滅させたが、陸戦では劉永福・馮子材・蘇元春らが東京方面でフランス軍を連破し文淵・諒山・谷松・威波・長慶・船頭と二百余里を撃退した。フランス国内でこの敗報に議会が紛糾する隙をとらえ、税務司ハートの仲介で講和交渉が進み、政府は諒山大捷の報を知らぬまま講和に応じてしまった。駐仏公使曾紀澤は継戦を電請したが容れられず、条約は越南をフランスに譲る内容で成立した。
  • 冬十月、英国がインドから進軍しビルマを滅ぼした。ビルマは乾隆十八年に清へ入貢して以来、内乱や周辺土司との抗争を経て次第に勢力を拡大したが、清の遠征も功を奏さず和議に終わり朝貢は途絶えがちとなった。乾隆五十五年に改めて朝貢を約したものの、道光年間以降は英国のたびたびの侵略により領土を奪われ、朝貢はほぼ絶えていた。光緒初年に一度朝貢はあったが、フランスの越南進出に乗じて英国も北ビルマ方面へ進出、清が越南問題で手一杯なのに乗じてインドから出兵しビルマを一挙に滅ぼした。駐英公使曾紀澤が抗議し、王位存続と十年一貢の維持を求めたが実現せず、後に駐京英使との間で「十年に一度、英国側が選んだビルマ人を朝貢使として派遣する」との名目的な条項で妥協した。清は朝貢の名目のみを得て実利は英国に帰した。

光緒二十年(1894年CE)

  • 春三月、朝鮮の東学党の乱に朝鮮王が援軍を求め、清はこれに応じた。朝鮮は高麗以来李氏朝鮮として清の藩属だったが、咸豐・同治年間の英仏との紛争、日本の江華島事件(同治十二年)を経て、光緒元年に日朝修好条規(第一条「朝鮮は自主の邦であり日本と対等」)が結ばれ、清は「朝鮮の内政外交には関与しない」と消極姿勢をとった。以後、英米独仏も朝鮮と通商条約を結び、李鴻章は属国の外交権をめぐる国際法の理解不足から、朝鮮に対米欧諸国との条約締結を勧める書簡を送るなど混乱した対応をとった。光緒六年、駐日公使何如璋の朝鮮駐箚官設置提案も鴻章の反対で見送られた。光緒八年、朝鮮の米国条約締結には馬建忠・丁汝昌が立ち会い、続く英仏条約も建忠が仲介した。同年八月、朝鮮の軍乱(壬午軍乱)で閔妃が殺害され大院君が実権を握ったが、清は呉長慶率いる軍を派遣し大院君を天津へ連行・幽閉、乱の関係者を処罰し朝鮮を日本要求の賠償・開埠・駐兵で決着させた。光緒十年、親日派金玉均らのクーデター(甲申政変)が起き閔泳翊らが殺害されたが、袁世凱らの清軍が鎮圧し王を保護、金玉均らは日本へ逃亡した。光緒十一年、伊藤博文が天津条約を結び、朝鮮への出兵には日清双方が事前通告する取り決めとなり、朝鮮は事実上日清共同保護国となった。同年三月、東学党の乱が全羅道で起こり全州が陥落、袁世凱の要請で清軍が牙山へ出兵、日本も対抗して出兵したが、乱自体はまもなく鎮圧された。しかし日本軍はそのまま漢城の王宮を占拠し大院君を擁立、閔泳駿ら大臣を追放、清軍との共同撤兵にも応じず朝鮮の独立自主を主張、内政改革を強要して国政を掌握した。以後日清間の緊張は開戦に至り、清は陸海軍とも敗北、翌年正月に馬関(下関)条約が結ばれ、朝鮮の完全な独立自主(清への朝貢儀礼の廃止)が定められた。これにより朝鮮は独立を宣言し国号を大韓、年号を光武と改め、清と朝鮮の二百七十五年に及ぶ宗属関係は断絶した。
  • 冬十二月、英仏両国がシャム(暹羅)の独立を協定して保証した。シャムは乾隆四十六年以来清へ朝貢していたが、道光年間以降は西洋諸国との条約締結が進み、太平天国の乱の混乱に乗じて朝貢が途絶えがちとなった。同治八年には朝貢儀礼の対等化を求める書簡を送ってきたが清はこれを拒否。光緒四年、曾紀澤の途上訪問で朝貢再開を促したが応じられず、光緒五年には英国がシャムに偽の清朝貢要求文書を送るなど策謀もあった。国王ラーマ五世(久拉隆功)は西洋式の近代化改革を進め国力を養ったが、フランスがベトナム・カンボジアを保護国化した勢いでメコン川東岸の割譲と賠償金五百万フランを強要(光緒十九年)、これに対し英国は自国のビルマと接するシャムの独立維持を図り、両国は互いにシャムを侵さない旨を協定、1904年にはロンドンで両国がシャムの独立を保証する宣言に調印した。
  • このほか清の藩属であったスールー(蘇祿国)・ラオス(南掌国)・ブータン(布魯克巴国)・シッキム(哲孟雄国)・パミール(博羅爾国)・アフガニスタン(阿富汗国)・バダフシャン(巴達克山国)・ブハラ(布哈爾国)・コーカンド(浩罕国)・カザフ(哈薩克国)・キルギス(布魯特国)・ネパール(廓爾哈国)・カンジュト(乾竺特国)等も、それぞれ英露の勢力圏に編入され、朝貢を続けたのはネパールとカンジュトのみとなり、旧来の藩属関係はほぼ消滅した。