清史紀事本末清仏戦争(ベトナム)と和約(法越兵事及和約)

フランスの越南(ベトナム)侵略に対し、光緒九年(1883)李鴻章が督弁に任じられて以降、劉永福の黒旗軍や馮子材らの陸戦での善戦にもかかわらず、馬尾海戦での大敗を経て光緒十一年(1885)に李鴻章がフランスと天津和約を結び越南の宗主権を失う経緯を描く。光緒九年から同十一年までの3年間。

年表(3件)

徳宗光緒九年(1883年CE)

  • 春三月、大学士直隷総督一等肅毅伯李鴻章を広東に派遣し、越南(ベトナム)問題を督弁させ、広東・広西・雲南三省の防務を統括させた。安南は旧広南王の子孫阮福映がフランスの援助を得て嘉慶七年に旧領を回復し中国の冊封を受け越南国王と改称したが、その後フランスが酬金を求めて拒まれたことから侵略が始まった。咸豊年間には教民殺害を理由に開戦、同治元年に南圻の嘉定・辺和・定祥三省を、同治十二年にはさらに永隆・安江・河仙三省を割譲させ、南圻全域がフランスの手に落ちてサイゴンが大埠となった。前年、フランスは紅河通商の実現を図ったが、黒旗軍を率いる劉永福(元太平軍の将)が宣光・興化・山西三省を守り保勝で通商税を握って抵抗したため、フランスは黒旗軍を「匪賊」として攻撃、河内・南定・河陽を陥落させ広安・寧平二省も占拠した。永福は山西に拠り雲南総督岑毓英の援助を得て善戦したが、フランスは別途東京・順化の砲台を陥落させ、越南国王阮福時の死後の王位継承にも介入して権益を奪い、後継の阮福曆(十二歳)が清に救援を求めてきたため、鴻章に督弁を命じた。
  • 秋八月、兵部尚書彭玉麟を広東海防督弁に任命した。鴻章は着任前、駐京仏使ブーレ(寳海)と天津で分界保護の三条案に合意していたが、フランス政府がこれを翻し、公使が交代(脱利古)して交渉は難航、脱利古が武力による北京入りを示唆したため、政府は南北洋の防務強化とともに玉麟を広東へ派遣した。

光緒十年(1884年CE)

  • 春三月、広西巡撫徐延旭・雲南巡撫唐炯がともに罷免・投獄された。延旭は出関して督師したが、部下の統制がとれず北寧が陥落、桂蘭は自殺、延旭は投獄された。潘鼎新を広西巡撫、王徳榜を提督とし、唐炯も山西失陥の責を問われ投獄、雲南総督岑毓英が出関督師することとなった。
  • 夏四月、李鴻章とフランス海軍中佐フルニエが天津で簡明条款五款に調印した。中国は北圻境界の維持を条件に駐屯軍の撤収に応じ、フランスは賠償要求を放棄する代わりに雲南・広西と越南との通商上の優遇を得るなどの内容であった。
  • 閏五月、両江総督一等威毅伯曾国荃をフランス公使バテノー(巴德諾)との上海会議に派遣した。フルニエとの間で境界巡察等をめぐる行き違いから、フランス軍が「巡邊」を名目に諒山を攻撃、清軍はこれを撃退したが、フランス提督クールベ(孤拔)は馬尾侵攻をちらつかせ賠償を要求、国荃が撫恤銀五十万両の供与を提案するも朝廷はこれを厳しく叱責し、抗戦方針を明確にした。
  • 六月、フランス軍が台北基隆砲台を陥落させたが、巡撫銜督弁台湾軍務の劉銘傳がこれを撃退した。銘傳は基隆守備兵を退かせて陸戦に誘い込み、提督曹志忠らとともに敵を大破。淡水でも孫開華らの奮戦で三度のフランス来襲を撃退した。
  • 秋七月、フランス海軍が福州馬尾の砲台を破壊し軍艦多数を撃沈、船廠を焼き払った。フランス艦隊が上海会議の間隙をついて馬尾に停泊、清側は兵船七・砲船二と劣勢で、督防の張佩綸は増援要請も認められず持久戦となったが、雨後の増水に乗じたフランス軍の奇襲を受け、参将高騰雲、管駕陳英ら将兵が奮戦むなしく戦死、七隻の兵船・商船が焼失し二千余名が死亡した(フランス側も六隻焼失・三百名の死者)。事後、佩綸らは処分され軍台へ流された。
  • 八月、広西提督蘇元春らが越南陸岸県でフランス軍を撃破。提督方友升らは郎甲で敗れた。楊玉科・王洪順の後詰めと寧裕明の伏兵策により観音橋で敵を撃退した戦いもあったが、その後、郎甲に進出した友升軍が油断からフランス軍の奇襲を受け大敗、玉科の本営も包囲され裕明の決死の救出により辛くも玉科は脱出したが、軍は大きな損害を被った。
  • 冬十月、蘇元春らが越南紙作社でフランス軍を撃破した。
  • 十一月、提督劉永福らが越南の宣光・興化・山西三省の諸府州県を回復した。永福は招撫を受けて進撃し、唐景崧・黄守忠・滇軍の三方からの挟撃でフランス軍を撃退、宣光・興化・山西各省の失地を回復した。
  • 十二月、フランス艦隊が浙江鎮海口を攻撃したが、提督欧陽利見らがこれを撃退した。

光緒十一年(1885年CE)

  • 春正月、諒山が陥落し、フランス軍が鎮南関に迫った。提督楊玉科は文淵州で力戦の末に戦死した。フランス軍が全力で蘇元春を攻めたのち諒山方面の防備が手薄となり、潘鼎新の後退により諒山は失陥、寧裕明らの奮戦にもかかわらず玉科は戦死し、鼎新・王徳榜は罷免、蘇元春が広西軍務督弁、李秉衡が広西巡撫代理となった。
  • 二月、前広西提督馮子材・王徳榜らが文淵州を攻略し諒山を回復した。子材が鎮南関付近の要地小南関で防衛態勢を敷き、寧裕明・徳榜らの奇襲・挟撃によりフランス軍を撃破、以後フランス軍は文淵・諒山・谷松・威坡・長慶・船頭と連戦連敗し二百余里を退却、講和を求めるに至った。
  • 夏四月、李鴻章とフランス公使パトノートル(巴特納)が天津で和約十款に調印した。総税務司ハートの仲介により、諒山での清軍勝利を背景にフランス国内で戦費増額案が議会で否決されたこともあり、講和が急進した。条約は、フランスの越南における秩序回復権を認めつつ中国国境は侵犯しないこと、既存・今後の仏越間条約は中国の威信を損なわないこと、六か月以内に両国で北圻国境を画定すること、越境者への通行許可制、雲南保勝(後の蒙自)・広西諒山以北(後の龍州)に通商税関を開設すること、雲南・広西国境の通商税率の減免、中国南方諸省の鉄道建設へのフランスの協力、条約発効十年後の改訂協議などを定め、フランス軍は基隆・台湾・澎湖から撤退し海上の臨検も停止するものとされた。捕虜の交換も行われた。

史論(編者曰)

  • 編者は、法越戦争は結局のところ越南という藩属をフランスに奪われる結果に終わり、数省を揺るがし帑金二千余万を費やしたと総括する。諒山の勝利がなければ講和自体成立せず、勝敗の帰趨は分からなかったであろうとし、戦の恐ろしさを説く。馬尾の敗戦については、世人は張佩綸を非難するが、彼は学士に過ぎず軍事の実務経験もない中で、政府が先制攻撃を禁じ、督撫・船政大臣も傍観する中で孤立無援のまま敗れたのであり、京官時代に直言家として睨まれていたため、この敗戦を機に排斥されたに過ぎないとする。閻敬銘が出立時に「君は鼂錯(前漢の政治家、讒言により処刑された)のようになるだろう」と語ったという逸話を紹介し、佩綸自身もそれを覚悟の上で赴任したのだと述べる。またフランス提督クールベが馬尾の戦傷がもとで没し、進撃を続けられなかったことをもって、佩綸の功もあながち過小評価すべきではないとし、日清戦争(甲午の役)の結果と比較してどうかと問いを投げかけて結んでいる。