清史紀事本末外国への通使と留学生派遣(通使及選派留學)
光緒元年(1875)の郭嵩燾ら英国公使派遣を皮切りに、各国への常駐公使制度が整備され、福建船政学堂学生の英仏留学や日本留学生派遣など人材育成が進む過程を追う。伊犁交渉・日清戦争・義和団事変等の外交案件に応じて公使が交代し、光緒三十四年(1908)まで34年間にわたる通使・留学政策の展開を描く。
年表(29件)
- 徳宗
- 光緒元年(1875年CE)郭嵩燾を英国公使として派遣し公使常駐制度が始まる
- 光緒二年(1876年CE)福建船政学堂の学生を英仏へ留学させる
- 光緒三年(1877年CE)劉錫鴻を駐独公使に改め、日本各港に理事官を設置
- 光緒四年(1878年CE)曾紀澤を英・仏公使、李鳳苞を独国公使に任命
- 光緒五年(1879年CE)崇厚を露国公使とし伊犁返還交渉にあたらせる
- 光緒六年(1880年CE)曾紀澤を露国公使とし伊犁条約の再交渉を命じる
- 光緒七年(1881年CE)ホノルル領事を設置、鄭藻如を米・日・秘公使とする
- 光緒十年(1884年CE)許景澄を仏・独・伊・蘭・墺等国公使とする
- 光緒十一年(1885年CE)曾紀澤を召還し劉瑞芬を英・露公使とする
- 光緒十三年(1887年CE)洪鈞・劉瑞芬・李興銳をそれぞれ露独墺、英仏伊、日本公使とする
- 光緒十五年(1889年CE)陳欽銘・薛福成を英仏伊比公使、崔国因を米日秘公使とする
- 光緒十六年(1890年CE)許景澄を露独墺蘭公使、李経方を日本公使とする
- 光緒十七年(1891年CE)薛福成の上奏により南洋諸島の領事を設置
- 光緒十八年(1892年CE)汪鳳藻を日本公使、楊儒を米日秘公使とする
- 光緒十九年(1893年CE)龔照瑗を英仏米比四国公使とする
- 光緒二十年(1894年CE)王之春をロシアへ派遣しニコライ二世即位を賀す
- 光緒二十一年(1895年CE)李鴻章を全権として日本へ派遣し講和を議す
- 光緒二十二年(1896年CE)羅豊禄・黄遵憲・伍廷芳を英独米公使とする
- 光緒二十三年(1897年CE)張蔭桓を英国へ派遣しヴィクトリア女王即位六十年を賀す
- 光緒二十四年(1898年CE)日本留学生派遣を命じ、李盛鐸を日本公使とする
- 光緒二十六年(1900年CE)張百熙を英国へ派遣し女王の喪を弔う
- 光緒二十七年(1901年CE)義和団事変の謝罪使として醇親王載澧を独国へ派遣
- 光緒二十八年(1902年CE)露伊墺等に専任公使を置き、汪大燮を日本留学生総監督とする
- 光緒二十九年(1903年CE)楊晟を墺国公使とする
- 光緒三十年(1904年CE)留日学生が同仇会を組織し抗露を働きかける
- 光緒三十一年(1905年CE)留学帰国生の試験を制度化し陸徴祥をハーグ平和会議へ派遣
- 光緒三十二年(1906年CE)留学卒業生に進士・挙人出身を賜る
- 光緒三十三年(1907年CE)伍廷芳を米墨秘古四国公使とする
- 光緒三十四年(1908年CE)胡惟徳を日本公使、蔭昌を独国公使とする
徳宗光緒元年(1875年CE)
- 秋八月、侍郎郭嵩燾・道員許鈴身を英国公使として派遣することとし、のち鈴身は日本公使に改められ、五品京堂劉錫鴻が駐英副使となった。鈴身は事情により直隷に留まり、侍読何如璋が代わって駐日公使となった。それ以前、同治六年に道員志剛・郎中孫家穀が米国使節バーリンゲームに随伴して条約各国を巡回した例や、同治九年の天津教案後に崇厚を仏国へ派遣した例はあったが、いずれも臨時の派遣で常駐ではなかった。同年五月、総理各国事務衙門が洋務に通じた人材の常備を上奏して許可され、諸公使を各国に常駐させ参賛・領事らを統率させることとなった。
- 冬十一月、三品京堂陳蘭斌・同知容閎を米・日(西班牙系スペイン領)・秘魯三国公使とした。先立って同治十一年、曾国藩・李鴻章の上奏により幼童を米国へ留学させる計画があり、蘭斌と容閎がその管理にあたっていた。到着後、米国各州の華人が十四万余、うちサンフランシスコに六万を数えることを調査し、同地に総領事を設置。またキューバに六万余の華人労働者がいることを知り、キューバ・マタンサスにも領事を置いた。ペルーのカヤオにも領事を設けた。
光緒二年(1876年CE)
- 秋八月、総理各国事務衙門が出使経費を定め、許可された。雲南のマーガリー事件(馬嘉理案)の決着に際し、李鴻章が英国と結んだ条款に「使臣を派遣し英国に赴いて遺憾の意を表す」との一条があり、郭嵩燾らの英国派遣が実行に移されることとなった。
- 冬十二月、李鴻章・沈葆楨が李鳳苞らに福建船政学堂の学生三十名を率いて英仏両国に留学させ、製造・操艦を学ばせることを上奏し、許可された。先立って同治六年、左宗棠が福建に船廠を設立して沈葆楨に船政を委ね、五年で輪船三隻・兵輪二十隻を建造し諸海口に配備した。学堂二校を開いて幼童に操艦・製造を学ばせていたが、光緒元年には日意格の帰国に伴い学生をフランスへ留学させ、ドイツにも武弁を派遣していた。今回さらに李鳳苞が製造学生十四名・製造技術者四名をフランスへ、操艦学生十二名を英国へ派遣した。
光緒三年(1877年CE)
- 春三月、駐英副使劉錫鴻を駐独公使に改め、駐英副使を廃止した。
- 夏五月、駐日公使何如璋の上奏により、横浜・神戸大阪・長崎の日本各港に理事官を設置した。
- 秋九月、駐英公使郭嵩燾の上奏により、英領シンガポールに領事を設置した。
光緒四年(1878年CE)
- 春正月、駐英公使郭嵩燾に仏国公使を兼任させた。
- 秋七月、一等毅勇侯候補京堂曾紀澤を英・仏公使に、道員李鳳苞を独国公使に任命した。
光緒五年(1879年CE)
- 夏五月、侍郎崇厚を露国公使とし、のち全権大臣として便宜行事を許した。伊犁返還交渉のためである。
光緒六年(1880年CE)
- 春正月、大理寺少卿曾紀澤を露国公使とし、崇厚が結んだ伊犁返還条約の再交渉にあたらせた。
光緒七年(1881年CE)
- 春三月、陳蘭斌らの上奏によりホノルル領事を設置した。太平洋上の国「サンドイッチ諸島」(檀香山)は八島からなり、華民出洋の要衝かつ米国サンフランシスコの後方拠点、ペルー行きの中継地でもあるため、商董で同知銜の陳国芬を領事とした。
- 秋七月、三品京堂鄭藻如を米・日・秘三国公使とし、陳蘭斌を召還して総理各国事務衙門に配し、副使の制を廃した。藻如は米国着任後、ニューヨーク領事を設置し通判欧陽明を充てた。
光緒十年(1884年CE)
- 夏四月、侍講許景澄を仏・独・伊・蘭・墺等国公使とし、赴任前は李鳳苞が兼署した。
光緒十一年(1885年CE)
- 夏五月、曾紀澤を召還し、江西布政使劉瑞芬を英・露公使とした。英国がビルマを滅ぼし国境問題が重大であったため、紀澤を呼び戻して面談し、瑞芬に代えた。侍郎張蔭桓を米・日・秘三国公使に任じた。
光緒十三年(1887年CE)
- 夏五月、内閣学士洪鈞を露・独・墺・和等国公使、大理寺卿劉瑞芬を英・仏・伊・比等国公使、道員李興銳を日本公使とした。興銳は病のため赴任できず、庶常黎庶昌が代わった。
- 冬十二月、両江総督張之洞がマニラ(小呂宋)への領事設置を上奏したが許可されなかった。マニラはスペイン領で華民五万余がいるとして虐待の実情を訴え、総領事設置を求めたが、総署は難色を示し不許可とした。
光緒十五年(1889年CE)
- 春二月、江蘇按察使陳欽銘を英・仏・伊・比四国公使としたが、欽銘は病のため免ぜられ、大理寺卿薛福成が代わった。三月、侍講崔国因を米・日・秘三国公使とした。
光緒十六年(1890年CE)
- 秋七月、侍読許景澄を露・独・墺・蘭四国公使、道員李経方を日本公使とした。
光緒十七年(1891年CE)
- 春正月、駐英公使薛福成の上奏により南洋諸島の領事を設置した。前年、海軍提督丁汝昌が南洋群島を巡視した際、未設置地域の華民約三十万人が現地人の虐待を訴えたことを受け、福成が香港に正領事を置き(新嘉坡領事の左秉隆が兼務)、新嘉坡領事を「新嘉坡兼轄海門等処総領事」に改め、駐英二等参賛の黄遵憲を充てて麻六甲・丹徒斯群島・檳榔嶼などを兼轄させた。あわせてマラヤ諸邦(華民計十七万余)や白蠟(六万余)・石蘭莪(二万八千)・松蓋芙蓉・柔佛など英保護下の諸邦を管轄下に置いた。
光緒十八年(1892年CE)
- 夏六月、編修汪鳳藻を日本公使とした。冬十二月、太常寺少卿楊儒を米・日・秘三国公使とした。
光緒十九年(1893年CE)
- 冬十一月、道員龔照瑗を英・仏・米・比四国公使とした。
光緒二十年(1894年CE)
- 冬十月、湖北布政使王之春をロシアへ派遣し、ロシア皇帝アレクサンドル三世の崩御を弔い新帝ニコライ二世の即位を賀させた。
光緒二十一年(1895年CE)
- 春正月、大学士直隷総督一等肅毅伯李鴻章を全権として日本へ派遣し講和を議させた。日清戦争で清軍が敗勢にあったため、鴻章に全権を委ね広島(当時日本天皇が移駐)で講和にあたらせ、米国人フォスターを随行させた。
- 冬十二月、翌年四月のロシア皇帝戴冠式に際し李鴻章を正使として派遣した。当初は先の弔問使であった王之春を賀使とする予定だったが、駐京露使カシニーが「加冕はロシア最重の礼であり王之春では役不足、李中堂こそ適任」と主張したため鴻章を頭等公使としてロシアへ派遣した。これは実はカシニーが鴻章を誘い出し露清密約を結ばせる狙いであった。
光緒二十二年(1896年CE)
- 冬十月、四品京堂羅豊禄を英国公使、道員黄遵憲を独国公使、四品京堂伍廷芳を米国公使とした。
光緒二十三年(1897年CE)
- 春二月、侍郎張蔭桓を英国へ派遣し、ヴィクトリア女王即位六十年慶典を賀させた。三月、駐京露使カシニーは変装して密かに英国へ蔭桓を訪ね、露国訪問へ招いて厚遇し密約への反対を封じようとした。侍郎呂海寰を独・蘭公使とした(黄遵憲が事情により赴任しなかったため)。
光緒二十四年(1898年CE)
- 夏四月、総理各国事務衙門に対し、同文館学生の選抜派遣、および直隷・両江・両広・湖広・閩浙各督撫による日本留学生選抜を命じた。御史楊深秀の建議によるもので、日本公使矢野文雄が「日本政府は中国の人材不足を憂い、学生二百名までを自国費用で受け入れる」と申し出たことを受けたものである。
- 秋八月、四品京堂李盛鐸を日本公使とした(黄遵憲が政変により称病して辞退したため)。冬十月、駐露公使楊儒をオランダ・ハーグの万国平和会議(日内瓦条約=赤十字条約の会議)へ派遣した。
光緒二十六年(1900年CE)
- 冬十二月、左都御史張百熙を英国へ派遣し、女王の喪を弔い新王の即位を賀させた。
光緒二十七年(1901年CE)
- 夏四月、醇親王載澧を頭等専使として独国へ派遣した。前年五月の義和団の乱でドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーが殺害されたため、謝罪と哀悼の意を表すためである。ドイツ皇帝が跪拝の礼を強要しようとしたが、政府が国際公法をもって力争し通融させた。
- 五月、侍郎那桐を専使として日本へ派遣した(義和団の乱で日本公使館書記生杉山彬が殺害されたため)。五品京堂蔡鈞を日本公使とした。各国駐在公使に留学生の調査・帰国後の登用を命じた。
- 六月、知府許台身を韓国公使とした。朝鮮はすでに皇帝を称し国号を「韓」、年号を「光武」と改めていたため、対等の礼で使節を送るべきか廷議で争われたが、帝は「他国と同様に扱うべき」として使節派遣を決めた。台身は漢城総領事も設置し挙人傅良弼を充てた。副都統蔭昌を独国公使とした。
- 秋七月、駐英公使羅豊禄を露国公使に転じた。駐露公使楊儒が条約交渉で威圧され、負傷を口実に急ぎ豊禄に交代させた。
- 八月、各省に留学生の選抜派遣を命じた。載澧を召還した。載澧は独国での国書奉呈後に米・日・英・伊・比等国を歴訪する予定だったが、ドイツ皇帝がこれを不快とし歓迎を拒否、英国も応じなかったため急遽帰国した。
- 冬十月、四品京堂張徳彝を英国公使とした。キューバの独立に伴い、徳彝に対キューバ新条約締結も兼務させた。
光緒二十八年(1902年CE)
- 夏四月、五品京堂許鈺を伊国公使、楊兆鋆を比国公使、呉徳章を墺国公使とした。従来は露国公使が墺国を、英国公使が伊・比両国を兼務していたが、国体上の理由から専任の使臣派遣を求める声が強く、この人事となった。
- 六月、五品京堂胡惟徳を露国公使、四品京堂孫宝琦を仏国公使とした。秋九月、各省に西洋各国への専門学業留学生派遣を命じた。
- 冬十月、五品卿銜汪大燮を日本留学生総監督とした。六月頃、駐日公使蔡鈞が自費生の入学や学生代表の請願を拒み警察に逮捕させる騒動が起き(学生が康有為に扇動されたとの疑いをかけたもの)、載振の訪日時に日本外相小村寿太郎が助言したこともあり、選抜された総監督を常駐させる方針となり、大燮が任命された。十二月、貝子銜溥倫をセントルイス万国博覧会の正監督とし、道員黄開甲・税務司柯爾楽を副とした。
光緒二十九年(1903年CE)
- 秋七月、湖北留日学生王璟芳の忠勤により挙人出身を賜った(撫臣端方の電請による)。冬十月、楊晟を墺国公使とした。
光緒三十年(1904年CE)
- 秋九月、駐米公使梁誠がメキシコ総領事の設置を上奏し許可された。外務部が南アフリカ英領総領事を設置し道員劉玉麟を充てた。
- 冬十月、駐露公使胡惟徳をハーグ会議へ派遣した。十一月、駐日公使楊枢に留学生の同仇会結成を密査させた。日露戦争で中国が局外中立を宣言する中、ロシア・日本双方が中国領内で軍を展開したため、留日学生が「空前の怪状の中立」だとして憤激し、同仇会を組織して学生軍を編成、代表鈕永建を政府に送り抗露を働きかけたが政府は応じなかった。
光緒三十一年(1905年CE)
- 夏六月、留学帰国生の試験を行い金邦平らに進士・挙人出身を与え、以後毎年実施することとした。秋七月、両江総督周馥が独国陸軍留学生十名の派遣を上奏。八月、各省督撫に欧米への留学生派遣強化を命じた。四品京堂劉世訓を仏国公使、三品京堂周栄曜を比国公使、五品京堂黄誥を伊国公使、外務部参議汪大燮を英国公使とし、楊晟を独国公使、李経邁を墺国公使に転じた(周栄曜が事情により赴任せず、順天府丞李盛鐸が比国公使となった)。
- 九月、四品京堂楊兆鋆を比国公使とした(李盛鐸が載沢らの政治考察に随行することとなったため)。冬十月、前駐露公使陸徴祥を専使としてハーグ平和会議へ派遣、駐蘭公使銭恂を副使とし、米国人フォスターも随行。中国の法制度をめぐる会議の批判に対し徴祥は理を尽くして反論し、頭等国としての待遇を求めた。十一月、慶親王奕劻に宗室子弟の海外武備留学の選抜を命じた。
光緒三十二年(1906年CE)
- 春三月、駐英公使汪大燮をスペイン国王の結婚祝賀の専使とした。秋九月、留学卒業生陳錦濤ら三十一人に進士・挙人を賜った。
光緒三十三年(1907年CE)
- 秋七月、外務部右丞雷補同を墺国公使とした。八月、商部左侍郎伍廷芳を米・墨・秘・古四国公使とした。九月、留学卒業生章宗元らに進士・挙人出身を賜った。冬十一月、道員蒯光興を欧州留学生監督とした。十二月、進士館留学卒業生楊兆麟らに褒賞した。
光緒三十四年(1908年CE)
- 春二月、外務部右丞胡惟徳を日本公使とし、銭恂を伊国公使、陸徴祥を蘭国公使に転じた。三月、農工商部の上奏により西貢・河内・ジャワへの領事設置を許可した。夏四月、留学卒業生章宗祥らに進士・挙人出身を賜った。六月、進士館留学・外班卒業生黎湛枝らに褒賞、米国の賠償金減額に対する謝意を伝えるため奉天巡撫唐紹儀を専使として派遣した。秋八月、陸軍部右侍郎蔭昌を独国公使とした。九月、進士館留学卒業生陳雲誥ら・留学卒業生陳振先ら・進士館留学卒業生葉尤圻らにそれぞれ褒賞・進士挙人出身を賜った。冬十月、御史葉芾棠が米国留学生の省別選抜を上奏し、学部の審議に付された。