清史紀事本末捻軍の興亡(捻事之起滅)
咸豊三年の安徽穎州・亳州での捻軍挙兵から、同治七年の東捻・西捻平定に至るまで15年間の捻軍の興亡。張楽行・僧格林沁の攻防、僧格林沁の戦死、曾国藩・李鴻章による剿捻策の転換を経て、東捻・西捻に分裂した後それぞれ討伐されるまでの経緯。
年表(15件)
- 咸豐三年(1853年CE)安徽穎州・亳州で捻軍が挙兵し雉河集を占拠
- 咸豐五年(1855年CE)張楽行が再び雉河集を占拠、捻軍が五旗に分かれ勢力拡大
- 咸豐六年(1856年CE)捻軍が西進し陳州に迫る
- 咸豐七年(1857年CE)捻軍が河南各地から京師近郊まで荒らし戒厳となる
- 咸豐八年(1858年CE)太平軍と捻軍が連合し攻勢を強める
- 咸豐九年(1859年CE)袁甲三が臨淮関を回復
- 咸豐十年(1860年CE)捻軍が清江浦を陥落させ大きな衝撃を与える
- 咸豐十一年(1861年CE)苗沛霖が寿州を陥落させる
- 同治元年(1862年CE)僧格林沁が四省軍務を統轄、捻軍が陝西に侵入するも撃退される
- 同治二年(1863年CE)僧格林沁が雉河集を攻略、張楽行が処刑される
- 同治三年(1864年CE)金陵陥落後、太平の残党が捻軍に合流し勢力を増す
- 同治四年(1865年CE)僧格林沁が曹州で戦死、曾国藩に剿捻が委ねられる
- 同治五年(1866年CE)李鴻章が剿捻を専任、四鎮策により捻軍の勢力が衰える
- 同治六年(1867年CE)東捻の遵王賴文光が投降処刑され東捻が平定される
- 同治七年(1868年CE)西捻の張総愚が敗走し投水自殺、西捻も平定される
咸豐三年(1853年CE)
- 冬十月、安徽穎州・亳州で捻軍が挙兵し雉河集を占拠した。「捻」とは元来、村人が疫病払いの儺戯で紙を捻り脂を灯す「拝捻」に由来する語で、無頼の徒が集まり仇殺・略奪を行う集団を指すようになった。康熙年間に興り嘉慶年間に党勢が拡大、山東・河南・安徽・江南・湖北の広範囲に及んだ。咸豐年間に太平軍が興ると治安対応が強化されたが取り締まりは実効を上げず、鄧天俊が宿州・蒙城・亳州・寿州一帯で勢力を伸ばし、雉河集を占拠するに至った。
咸豐五年(1855年CE)
- 秋八月、捻首張楽行が再び雉河集を占拠。呂賢基や袁甲三らの討伐は一時戦果を上げたものの、捻軍は歸徳・正陽・永城・桐柏・夏邑・沈邱などに拡大、以後捻軍は五旗に分かれ徐州・宿州・曹州・帰徳一帯を転戦するようになり、防軍では抑えきれなくなった。
咸豐六年(1856年CE)
- 秋九月、捻軍が西進し陳州に迫る。袁甲三の亳州攻めなどが行われるが、張楽行は潁州を経て東の徐州方面に大掠して還った。
咸豐七年(1857年CE)
- 冬十月、捻軍が南陽に入り知県施作霖が戦死。捻軍は河南各地から霍山・和州・滁州にかけての広範囲を荒らし、遊撃隊は直隷大名府まで及び京師が戒厳となった。
咸豐八年(1858年CE)
- 秋七月、勝保が安徽軍務督弁、袁甲三が三省の捻討伐を命じられる。太平軍と捻軍が連合して固始・六安を破るなど攻勢は続いたが、清軍も臨淮・六安を回復するなど一進一退が続いた。李昭寿(官書には兆受とあり後に世忠と改名を賜った)が滁州で投降。
咸豐九年(1859年CE)
- 冬十月、袁甲三が皖省軍務を督弁。清軍指揮系統の混乱(勝保による甲三弾劾、傳振邦への交代など)や捻軍の各地侵攻が続いた。十一月、袁甲三が臨淮関を回復。
咸豐十年(1860年CE)
- 春正月、勝保が河南捻討伐を督弁。捻首張楽行・龔得樹が清江浦を陥落させ淮海道呉葆晉らを殺害、清江の陥落は大きな衝撃を与えた。
- 秋九月、捻軍が済寧に入り、僧格林沁が討伐を命じられた(帝は熱河へ出奔中)。冬十一月、僧格林沁は鉅野で敗北。捻軍の勢力は馬歩数万に達し、僧格林沁は各州県に長囲を築かせて対抗した。
咸豐十一年(1861年CE)
- 春正月、僧格林沁がまた荷澤で敗北。秋九月、叛練苗沛霖が寿州を陥落させた(沛霖の投降と再叛、翁同書の対応の経緯)。
- 冬十一月、僧格林沁が亳州北方の諸荘囲を攻略。この頃、河南・山東で捻軍の活動が広範囲に及び、僧格林沁の権限が四省軍務にまで拡大された。
同治元年(1862年CE)
- 秋、僧格林沁が山東・河南・直隷・山西四省の軍務を統轄。捻軍と太平軍の扶王陳得才らが陝西に侵入し渭南などを陥落させたが、多隆阿の反撃で撃退された。
- 冬十二月、多隆阿が陝西軍務督弁を命じられ、劉長佑が直隷総督に。勝保は驕慢な行動により逮捕された。
同治二年(1863年CE)
- 春正月、僧格林沁が雉河集を攻略。苗沛霖が捻首張楽行を捕らえて献上、樂行は処刑された。
- 秋七月、勝保に自尽が命じられた(長年の無為無策と不正、苗沛霖・李昭寿らとの不明朗な関係が糾弾された)。
- 夏六月、苗沛霖が再び寿州を陥落させた。沛霖は僧格林沁が既に投降していた者を殺したことを口実に不満を煽り立てたが、その後の攻防の末、冬十月、僧格林沁が蒙城で苗沛霖の旧部下に暗殺された経緯が語られ、苗沛霖の勢力は瓦解した。
同治三年(1864年CE)
- 秋九月、僧格林沁の軍が麻城で潰敗、光山、さらに鄧州へ退却。金陵陥落(太平天国滅亡)後、太平の残党が捻軍に合流し勢力を増した。
同治四年(1865年CE)
- 夏四月、僧格林沁が捻軍を追撃中、曹州南で伏兵にあい戦死(軽率な追撃と部下の離反が原因とされる)。朝廷は衝撃を受け、曾国藩に山東・河南・直隷の軍務が委ねられた。
- 六月、劉銘傳らが渦河西岸で捻軍を破り雉河の囲みを解いた。曾国藩は捻軍を流寇と見て、四省十三府州に四鎮の重兵を配置する戦略を定め、剿捻の体制に規律が生まれた。
同治五年(1866年CE)
- 冬十一月、曾国藩が両江総督任へ復帰し、李鴻章が専ら剿捻を担当することとなった。国藩の駐兵四鎮策と黄運河による扼守策により捻軍の勢力は衰えたが、成果が世に理解されず批判にさらされた末の交代であった。
同治六年(1867年CE)
- 春正月、左宗棠が陝甘総督として西捻討伐を督軍。捻軍は東捻(任柱・賴文光)と西捻(張総愚)に分裂していた。
- 正月、提督鮑超率いる霆軍が尹隆河で東捻を大破(劉銘傳の功名争いによる失敗を鮑超が救援した経緯、その後の讒言による鮑超の失脚)。
- 二月、劉松山が西安で西捻を大破。夏五月、東捻が山東に入り済寧の運河防備を突破、論争を招いた。
- 秋七月、東捻が濰河を渡り膠萊防を突破。冬十月、劉銘傳が東捻の魁任柱を暗殺により討ち取った。十二月、東捻の遵王賴文光が敗走の末に投降し処刑され、東捻は平定された。
同治七年(1868年CE)
- 春正月、西捻の張総愚が山西を経て直隷に迫り京師が戒厳となった。夏、左宗棠・李鴻章・都興阿らが協力して討伐にあたり、六月、張総愚が荏平で敗走し投水自殺、西捻も平定された(李鴻章の黄運河防御策と長囲の効果、劉松山の功績が特に評価された)。